哲義繙無碌(てつぎはんブログ)とは、先哲の義訓を繙(ひもと)き記録したものです! 40代を前にして隠棲し、小商いと執筆生活に勤(いそ)しむ愚昧なる小隠が、先哲の教えを中心に、愚拙に解釈する趣味的無碌=ブログです☆

2007年3月11日

我が心は鑒(かがみ)に匪(あら)ず。我が心は石にあらず☆

『詩経』国風・邶風-柏舟

我が心は鑒(かがみ)に匪(あら)ず、
以って茹(はか)るべからず。

我心匪鑒、
不可以茹。


「鑒」は鑑の異体字で、かがみ(鑑・鏡)とか、手本という意味を持ちます。「匪」は非に通じて「あら‐ず」という意味です。「茹」には「ゆ‐でる」という意味の以外に、「く‐らう」・「ふく‐む」などの意味から転じて、「はか‐る(推測する)」という意味も持っています。

これを訳すと・・・・・・
 「
私の心は鑑(かがみ)ではないので、(鑑に映すように)人の心を推し量ることなどできません。」・・・・・・となります。この言葉を言い換えると、人の思いというものは、鏡に映すように読み取ることができないものですから、勝手に決め付けてはならない、ということも言えるでしょう。物事を決め付けて言葉にすることは誰にもありがちなことですし、それが相手を傷つけることも少なくありません。気を付けたいですね。

この句には・・・・・・
亦有兄弟、不可以據。
薄言往愬、逢彼之怒。
「亦(また)兄弟有るも、以って據(よ)るべからず。薄言に往きて愬ぐるとも、彼の怒に逢う。」という句が続きます。これは、「兄弟はあっても、頼ることもできません。わずかなことを言うために行って話をしても、彼の怒らせることになります」という意味のようです。

さらに、この後に続く句は、「我心匪石、不可転也」・・・・・・「我が心は石にあらざれば、転がすことなかれや」というもので、この句から『我が心は石にあらず』というタイトルを付けた小説も書かれました。元立命館大学の先生で、京大生時代に吉川幸次郎先生に師事された高橋和巳氏の作品です。この作品を読む前に、この記字で引用した『詩経』の「柏舟」を知っていれば、高橋和巳氏に対する理解も深まっていたと思います。

『詩経』は、中国最古の詩を集めたものですが、この詩に書かれている、コミュニケーションの難しさと独り善がりになりやすいという人間のエゴの部分は、今も昔も変わらないようですね。また、古くから伝わる作品には、格式ばった雰囲気が漂っていますが、中味は今と変わらないということでもあると思うのです。

さて、ここで新しいブログの予告をさせて頂きます。この『哲義繙無碌(てつぎはんぶろぐ)☆Tetugi-han-blog☆』は、「先哲の義訓を繙(ひもと)く、碌で無しのブログ☆」としてスタートしたのですが、このブログの記事の中から『論語』だけを抜き出して、新たなブログを作ろうと思っております。そのブログで、『論語』の全訳を試みるつもりです。なぜそんな気になったのかという動機については、そちらで書きます。しかし、それで当ブログの更新頻度が更に低下してしまうのは不本意なので、気合を入れて書いてまいります。せめて、週に1~2回は更新いたしますので、週に一度はご訪問してくだされば嬉しいです。

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