哲義繙無碌(てつぎはんブログ)とは、先哲の義訓を繙(ひもと)き記録したものです! 40代を前にして隠棲し、小商いと執筆生活に勤(いそ)しむ愚昧なる小隠が、先哲の教えを中心に、愚拙に解釈する趣味的無碌=ブログです☆

2007年7月14日

三心の心得-『典座教訓』に学ぶ折り合いの付け方

『典座教訓』より。

喜心、老心、大心を保持すべき者なり。
キシン、ロウシン、タイシンをホジすべきモノなり。


可保持喜心、老心、大心者也。

【意訳】喜びと感謝の心、親が子を思うように思い遣る心、山や海のように包容力があって偏りのない心を持つべきである。

『典座教訓(てんぞきょうくん)』は、禅宗の一つである曹洞宗の開祖である道元禅師が記したものです。典座(てんぞ)とは、禅の修業をする道場における6つの職務のひとつで、修行僧たちの食事を作る役のことです。典座という職務は、道心(心身をもって仏道を求める心)に目覚めた人の中でも優秀な人だけに与えられるものであるということも同書に書かれています。この言葉は、典座という重要な職務を遂行する上での心得として説かれているものですが、暮らしの知恵を著したものとしても価値ある作品だと思います。

前回の記事では、“折り合い”こそが、人が如何に伏すかということに結び付くということをかきましたが、今回の記事は、“折り合い”とは何かを、先哲の典籍に求めてみました。そして、「喜心」、「老心」、「大心」という三つの心である三心というものが、“折り合い”を具体的に説明するものだと思い、取上げることにしたのです。三心は仏道に身を置く者だけではなく、私たちの日常生活の心得としても有益なものでしょう。

「喜心」は喜悦の心であると説かれています。これに続いて、、もし天上に生まれていたとしたら、楽しいことばかりで信仰心が芽生えることもないであろうと記されています。何の悩みも苦労もなければ、幸福であることの意味を知ることもなく、信仰心を持つこともなければ悟りを開くこともなく無為に過ごすだけで、この世に生を享けた意味を持たないということなのでしょう。「喜心」とは、喜びと感謝の心ですが、自身が望まない境遇や状況にあっても、それが与えられたものであることを享受するところから、これを喜び感謝するという心が生まれるのでしょう。そして、不平不満や恨み言の中ではなく、楽しもうとする心の中にこそ自己変革と成長があるということなのでしょう。

「老心」は、父母が子を思う心であると説かれています。我が子に抱く慈愛の心を持って人に接するということで、そこには無私の愛というものがあります。子供が病気になった時に、自分が身代わりになってやりたいと思う心は献身的で無償のものです。このように書くと、通常の暮らしの中では大げさに思えるかも知れませんが、代償を求めない慈愛の心は、チョッとした生活シーンの中にも見出すことができるものではないでしょうか。

「大心」 とは、心を大山のように、あるいは大海のようにして、心が偏ることもなければ、一時的な利害によって周りに同調[党同]することもない、悠然とした心であると説かれています。小さなことに囚われていては際限がなく、何時も思い悩むことになりますが、大局的な見識眼を養うことで、小事に動じることや惑わされることから開放されて、ゆったりとした広い心を持つことができるのでしょう。実際に、小さなことにくよくよしてばかりいる人に限って、肝心なことを見逃しているものです。これは物事を見る視点とか判断の仕方が間違っているんでしょうね。

「喜心」、「老心」、「大心」、この三つの心を意識することで、その人の中に“徳”と“仁”とが備わるのでしょう。この三心を知ったからといって、簡単に実践できるものではないですよね。しかし、だからと言って読み過ごすのではなく、意識することが大切なのだと思います。身構えてしまうとできにくいものですが、意識的に覚えておくだけのほうが意外とタイミングよく思い出せて、気が付いたら実践できていたりするものです。

追い風を受けているときは、少々間違ったことをしても大勢に影響が出ないものですが、向かい風が吹いているときとなると、小さなミスが大きな問題に発展してしまうものです。そして、向かい風のときほど、がむしゃらに突き進もうとするものですから、疲れてしまって冷静さも失うものです。向かい風に対する“折り合い”の付け方としても、この三心を心得ていれば消耗することなく知力と体力を養うことができると思います。それによって、「飛ぶこと必ず高く」なるのですね。


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2007年7月12日

伏すること久しきは、飛ぶこと必ず高し-菜根譚

『菜根譚』後集76より

伏すること久しきは、飛ぶこと必ず高く、開くこと先なるは、謝すること独り早し。
フクすることヒサしきは、トぶことカナラずタカく、ヒラくことサキなるは、シャすることヒトりハヤし。

伏久者、飛必高、開先者、謝独早。

【意訳】長い間にわたって地に伏していたものは、その間に養っておいた力を発揮して、必ず高く飛ぶことができ、先に開いたならば、それだけが他の花よりも早く衰えるものだ。

この言葉のあとには、このように続きます。これを心得ていれば、道が見えなくなって勢いを失うことも、結果をだすことに焦って心を惑わすこともなくなる、と。これを四字熟語で表すと、「大器晩成」ということになるんでしょう。あるいは、不遇な期間を耐えて後に実力を発揮する場を得る場合もあるでしょう。これは、その人の努力天の理気地の利を得て結実する時を迎えるということですね。人が努力を重ねたことが地の利天の理気・天命に適い、「天」「地」「人」の三元が合致することで、それまでの行いが報われるということです。

努力をしても人事を尽くしても、上手く行かない報われないというのもよくある話です。ならば、天命や天の理気というものは、人に対して不平等に訪れたり、イタズラに作用したりするものなのでしょうか。これを中国で生まれた陰陽五行理論に照らして考えると、天の理気が不平等であるということは有り得ず、すべての人に同じように巡って来ます。だとすれば、努力が報われることと報われないこととの違いは、“地の利”“その人の努力”とのいずれか、あるいは両方にあるということになります。言い換えれば、三元の「天」を操ることはできないが、「地」「人」のいずれか、あるいは両方を変えることならできるということになりますね。

「地」を環境とし、「人」を個人の行いとして仮定すると、一番に変えやすいものは「人」といえるでしょう。個人を取り巻く環境には、簡単に変わるものと、変えることが困難なものとがあります。対人関係で言えば、簡単に変えられる(変わってしまう)部分もあれば、容易には変えられない部分もあります。信用を失くすことはスグですが、信用を築くことは容易ではないですよね。まあ、一時的に人を信用させることが得意な人もいますけれども、化けの皮がはがれるのも早いですよね。このように考えると、人は環境との折り合いを付けながら生きなければならないものだと改めて思います。ワタクシのような隠棲の身の者が、“環境との折り合いを付けながら生きなければ”などと書くことは、遠慮しなければならないことではあるのですが、話の流れということで容赦してください、隠棲することによって客観視できることもありますので。

そこで、“折り合い”というのが「伏すること久しき」に通じることで、如何に伏すかということが“折り合い”の付け方なのだと思うのです。“折り合い“の付け方次第で、高く飛ぶこと、すなわち大きな収穫を得ることができるということでしょう。“折り合い”ということについては、今回の記事の出典である『菜根譚』にもイロイロと載っていますし、『論語』にも細かく書かれています。これを抽象的に言い表せば、仁とか徳とかになるのでしょうが、もう少し具体的にまとめた言葉はないものかと思い調べてみると、絶好の言葉がありました。ということで、これを次回の記事のネタにさせていただきます。このブログの場合、次回が何時になるのか不明確なのですが、遅くとも今月中にはUPいたしますので、また読みに来て下さい。


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