哲義繙無碌(てつぎはんブログ)とは、先哲の義訓を繙(ひもと)き記録したものです! 40代を前にして隠棲し、小商いと執筆生活に勤(いそ)しむ愚昧なる小隠が、先哲の教えを中心に、愚拙に解釈する趣味的無碌=ブログです☆

2008年10月26日

三徳‐トップに立つ者の心得

三徳―人に備わるべき三つの徳とは?

三德:一曰正直,二曰剛克,三曰柔克。

三徳:一に曰く正直、二に曰く剛克、三に曰く柔克。

『書経(尚書)』[洪範]より引用。


『書経』は『尚書』とも呼ばれ、中国の政治史と政治のあり方を示した、中国最古の歴史書です。上記の文章は、政治倫理・道徳を説いた9個の指針である「九疇(キュウチュウ)」の6番目の一節で、『書経』の中の「洪範」に書かれているものです。

政治家や公務に携わる役人、あるいはリーダーとして先導する立場にある人や経営者など、中枢に位置する人物が持つべき三つの指針、それを三徳として表現している言葉だと思います。

三徳の意味するところは、(人の上に立つ者や人を導く立場にある者は、すべての民に対して)1つは正直でなければいけない。2つ目に、(正直さと志を貫くための)剛強な心を忘れてはならない。3つ目に、(剛克に偏らず、万民に対して)柔和な心を持ち続けなければならない・・・・・・というように解釈します。

「九疇(キュウチュウ)」は政治家の教科書的な存在として、長きにわたって読まれてきましたが、これを実行できた政治家は何人いたのでしょう。今では、「九疇(キュウチュウ)」すら知らない大臣もいるのでしょうね。知っていれば、あれほど厚顔無恥な振舞いもできないでしょうに。中国最古の古典ではあっても、今に通じるものは有ると思うのですが、現代の政治屋さんにとっては、無用なモノなのでしょうかね。上記の言葉は、一般ピープルにとっても意味のあるものではないかと、私なんかは考えております。

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2008年6月15日

善とは、善の在り方とは何か―積善の家には必ず余慶あり[積善余慶]

積善の家には必ず余慶あり[積善余慶]

積善之家必有餘慶。積不善之家必有餘殃。

積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。

『易経』[(周易上経)坤・文言伝]より引用。

積善余慶という言葉は、四字熟語や名言として目や耳にすることが多いのですが、これが『易経』に由来していることを、私は『易経』を読むまで知りませんでした。この言葉は、『易経』の卦を解説する[文言伝]に書かれているものです。

「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という部分を現代語に意訳すると、「善(よいこと)を積み重ねた家では、その恩恵が子孫におよび、不善(よくないこと)を積み重ねた家には、その災いが子孫にまで及ぶ。」というようになります。

「善」を善(よ)い行いと解釈すると、人に対して親切であったり助けになったりして、相手から感謝されるような行いが「善」であるように思われます。そして、ここで言う人とは家族ではなく他人様を指すもので、「家族以外の人にまでも善意を持った行いをしていれば、それが積み重なって、自分自身の子供や孫の代にいたっても幸福に恵まれる」ということを説いていることになります。だとすると、もう一方の「積不善の家には必ず余殃(よおう)有り」というのは、「人様に対して善意に欠ける行いをすれば、孫子の代にいたっても災難に遭う」と解釈されます。

これは「因果応報」とか「情けは人のためならず(回りまわって自分に還ってくる)」とかと同じような意味であり、極めて道徳的な言葉であるかのように思われます。現に、本やウェブサイトで載せられている「積善余慶」の解釈の多くが、このようなニュアンスで書かれています。書かれていることは人の行うべき道徳として正しくもあるのですが、『易経』で書かれている内容とは少し違うのです。

「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という言葉は、『易経』の「坤為地(こんいち)」という卦を解説する「文言伝」に書かれているものです。「坤為地(こんいち)」というのは全陰・純陰の卦で、全陽・純陽を表す「乾為天(けんいてん)」と対をなす卦です。(下図を参照)

(坤為地)(乾為天)。

「坤為地」というのは天地の地を意味し、天を意味する「乾為天」に従うものであり、従順で貞正な卦であると『易経』では書かれています。地(坤)の動きや働きは、天(乾)に感応するものであり、天(乾)の動きや働きに対して抗うことなく従順であることによって、地(坤)の動きや働きという作用が全(まっと)うされるということでしょう。

「文言伝」には、坤について次のように書かれています。「すべての卦(六十四卦)の中において坤は最も柔なる存在であるが、乾に感応する動きには力強さと確かさ(剛)が備わっていながら静かなものであり、その作用は四方の隅々にまで及ぶものである。(乾の)後ろに位置しすることによって、乾の動きに応じた動きができ、地上のすべての物を含有して生育することができる。坤の道は其れ順なるか。天の動きを受けるところに(坤としての)行い(作用)がある。」

上記を平たく表現すると、坤の作用というのは天の理にかなったものであって、それが淡々と行われるところに坤の柔剛さがあらわれているということでしょう。そして、この後に続くのが、冒頭に掲げた「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という言葉なのです。さらに、この言葉には、次のような文章が続きます。「臣が其の主君を殺(あや)め、子が其の父を殺めるというようなことは、一時的なことが原因で起こるのではなく、その要因となるものが次第に重なっていることに由来するのである」と。

これらの文脈から判断すると、「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という言葉の意味するところが、「家族以外の人にまでも善意を持った行いをしていれば、それが積み重なって、自分自身の子供や孫の代にいたっても幸福に恵まれ、人様に対して善意に欠ける行いをすれば、孫子の代にいたっても災難に遭う」とは少し違うように感じられます。ここでは、坤(こん)が天の理に従って作用するものであるように、主君と臣下の関係や親子や家族の関係も理にかなったものでなければならない、ということを説いているのが「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という言葉なのでしょう。

『易経』の解説では、坤は乾に付き従う存在であるとして解説しているものがあります。これを乾に対して坤が隷属的なものであるとして解釈してしまうと、「善」というものの意味を間違えることになります。坤というのは隷属的なものではなくて、乾に対して忠実に感応し作用する存在であるというのが、正しい解釈だと思います。そして、坤(地)が乾(天)の理に感応して作用するように、人と人との間においても、天の理と同様のあるべき姿によって、その関係が創り出されるというのが、「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」の意味するところなのです。そして、あるべき姿を求めなければ、「臣が其の主君を殺(あや)め、子が其の父を殺めるという」事態を招くことになるのでしょう。

だとすると、「善」とは、人様から感謝されることを意味するのではなく、あるべき姿を求めることなのですね。上司が上司らしく、主人が主人らしく、親が親らしくあってこそ、職場においても家庭においても調和というものが生まれるのです。坤(地)は乾(天)に付き従うのではなく、乾(天)こそが坤(こん)を導く存在であり、坤(地)は乾(天)に感応して動いたり働いたりするのです。ですから、家庭においても、社会においても、あるべき姿である「善」を尽くすことが余慶を生み出すことに通じるのですね。

これと同様の意味を持つのが、『論語』の学而編の第2章です。『論語』では、この章を「目上に従う心こそが、仁(人を慈しみ愛する心)の根本である」と解説しているものが多くあります。しかし、学而編の第2章は、理想的な人間関係を示すために、有子(有若)が坤の意味を説いたものであろうということが
想像できるのです。『易経』の[文言伝]に書かれた「善」とは、他人様に感謝してもらうための善行ではなく、自分自身が身を置くポジションに相応しい生きかたを説いたものだったということですね。

ところで、これを今の世の中と照らし合わせてみると、「善」というものが機能しているとは言い難いですね。世間を騒がす事件は言うまでもなく、政治や行政に携わる人々にしても経済にしても教育にしろ、積善がなされているようには感じられません。こういう場合には、どのような余殃に遭遇するのか、それを考えると恐ろしく思えてきます。

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2008年4月5日

初志貫徹ってこと―騎虎之勢(きこのいきおい)

『五代史』唐臣伝/『隋書』后妃、独孤皇后伝より
[俚語に曰く]虎に騎(の)る者は、勢い下りるを得ず:[俚語曰]騎虎者勢不得下

背に人を乗せた虎は、それを落とそうと必死になって暴れ、虎の背に騎(の)る者は、振り落とされると食い殺される危険がある。一旦虎に騎(の)ってしまったら、最後まで、虎を仕留めるまで下りることはできない。

『隋書』后妃、独孤皇后伝では、「騎
者勢不得下」が「騎者勢必不得下」となっているようです。

漢和辞典の解説には、「虎に乗って走れば、非常な勢いなので途中でおりることはできない」と書かれています。「騎」という字には“馬にまたがる”という意味があるので、「
虎に乗って走れば」という表現になったのでしょう。

この言葉は、騎虎之勢(きこのいきおい)と言われ、一旦始めてしまったことははずみがついて、途中で投げ出すことはできない・・・・・・という意味で使われます。「
騎虎」、虎にまたがるというのは危険なこと、無謀なことだと予(あらかじ)め分かっていることですから、無理とか困難を承知で始めたことであれば、その思いは貫かなくてはならない、というくらいの気迫が込められているように感じます。

この場合、始めてしまった後の困難も予測しながら、最善の対応ができるようにしておく必要も生じます。途中で投げ出さずに遣り遂げることの重要さと崇高さを説いている言葉だと思います。ですから、軽はずみな行動をしてしまった時に使う表現ではありません。その場合には、「やめられない、とまらない~♪」というフレーズがピッタリでしょう。


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2008年3月10日

求むれば則ち之れを得、舎(す)つれば則ち之れを失う

『孟子』告子上編・盡(尽:じん)心上編より
求むれば則ち之れを得、舎(す)つれば則ち之れを失う:求則得之、舎則失之

求めようとする心があれば、それを得ることができるが、その思いを捨ててしまっては、得るはずの物ばかりでなく心をも失ってしまう。

この言葉が意味するところは、聖書に書かれている「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出されん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むるものは得たずねぬる者は見出し、門を叩く者は開かるるなり[マタイ伝二十六章六十四節]」に相通じるものですね。

求めるべきものは、すでに用意されている。あとは、それを求めよとするか否か、その人の心がけや意志によるものだ、ということでしょうか。ただ漫然と思うだけではなく強く念じる心が行動を生み、やがて得ようとしていたものが見えてくるのでしょう。

このブログに記事を投稿するのは昨年の8月6日以来で、実に7ヶ月ぶりになります。そんな私にも求めるモノがありまして、それを得ようとするための行動の一つが先哲の言葉に触れることでした。理由はともかく、未更新の状態が7ヶ月にも亘ってしまうと気恥ずかしいことであり未無念です。今回更新するに当たって、自身への戒めの意味も込めて、この言葉を選んでみました。

私が書いているブログは、もう一つ『論語ノート‐哲義繙無碌2号館☆』というのがありまして、こちらも未更新が続いております。こちらのほうも近日中に更新するつもりです。そっちのほうは、書こうと思っても文章が沸いてこないことが多いのです。これまた自分自身が、論語の一句一句を吸収しきれていないことの表れなんでしょうが、挫けずに喰らい付いていきたいと思っています。念ずれば通ず、ですから。