論語を読む:徳☆愛国心、品格のベースとなる要素の一つ
論語・里仁編第4
子曰く、徳は孤ならず、必ず隣有り。
「子曰、徳不孤、必有隣。」
◇前回に引き続いて、『論語』から引用します。今回取上げた、「子曰、徳不孤、必有隣」という一節は、里仁編第4の最後のほうに書かれているものです。「子曰」という部分を除けば、「徳不孤、必有隣」という具合に、わずか六文字で言い表されたシンプルな言葉です。これを「徳は孤ならず、必ず隣有り」と読み下し、「徳とは、孤立した孤独なものでは無く、それを認めてくれる人が、きっと周囲にあらわれる」というように解釈されています。
◇私はこの解釈を読んで、「何とも独り善がりな心境を投影した解釈なんだろう」と感じてしまいました。この解釈を、ホントに学者さんらしいものだと思ってしまったのです。学問というものには、確かに孤独な部分があり、自身の研究や考え方を世間に認めてもらうまでに相当な苦労もあるでしょう。仕事においても、同様のケースは幾らでもあると思います。しかし、「徳」というものは、「学問であって学問にあらず」というべきものの一つです。
◇「徳」は、「仁」や「義」・「礼」・「信」などと共に、いわゆる「道徳」の根幹をなすものです。しかし、「徳」は学ぶだけのものではなく、普段の生活の中で取り組まねばならない実践学です。「徳」は人と人との関係を円滑にするための作法でありルールですから、人の中にあってこそ、検証もできれば実践もできるものだと思うのです。「徳不孤」という言葉は、それを説く言葉でしょう。
◇「孤」も「独」も、「一人きり」という意味を持つ漢字ですが、少し違う意味もあります。「独」とは、外部との接触を絶った(絶たれた)状態を示す漢字です。もう片方の「孤」という漢字は、内部とのつながりが絶たれた状態を表しているのです。血のつながった者がいない子供を、孤児と書くように、身を寄せるハズの身内のものがいない状態を「孤」という漢字で表しているのです。助けてくれる者が内部にいない場合に、孤軍奮闘しなくてはならないのですね。
◇「必有隣」の「隣」は、「連なったもの」を表現する場合に使われる漢字です。隣人とは、自分のそばにつながっている人という意味ですね。ですから、「必有隣」は「理解をしてくれる人が必ず有る」ということではなく、「つながりというものが必要不可欠なもの、有するべきもの(持たなくてはならないもの)なのですよ」と解釈するほうが、意味が通じると思うのです。ここでは、「孤」と「隣」とが対比をなしていることは、今さら言うまでも無いことですが、対(つい:対比)の妙を如何に読み解くかで、解釈が異なるのですね。
◇まとめると、「徳というものは、身内のなかに学べるものであって、それを絶った孤高のものではなく、人とのつながりというものがあって、はじめて学べるものなのですよ」というように、孔子がおっしゃられたのでしょう。聖書でいえば、「人はパンのみに生きるにあらず」に通じるのでしょう。
◇近頃は、愛国心とか品格という言葉が流行っていますが、この言葉の源流にあるものが「徳」だと思うのです。しかし、近頃のエライ人は「徳」というものを、「得」や「特」とカン違いされているように思います。欲得や特権意識が横行して、「徳」を省みることのない人たちに、愛国心とか品格という言葉は、どう映っているのでしょうね。「美しい国」を何度聞かされても、伝わっては来ない・・・・・・というのは、私だけでは無いように想うのですが。。。つながっているのは私たちなのですが、目を向けてはもらえないのでしょうか。
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