哲義繙無碌(てつぎはんブログ)とは、先哲の義訓を繙(ひもと)き記録したものです! 40代を前にして隠棲し、小商いと執筆生活に勤(いそ)しむ愚昧なる小隠が、先哲の教えを中心に、愚拙に解釈する趣味的無碌=ブログです☆

2007年2月22日

論語を読む:徳☆愛国心、品格のベースとなる要素の一つ

論語・里仁編第4

子曰く、徳は孤ならず、必ず隣有り。
「子曰
、徳不孤、必有隣。」

前回に引き続いて、『論語』から引用します。今回取上げた、「子曰、徳不孤、必有隣」という一節は、里仁編第4の最後のほうに書かれているものです。「子曰」という部分を除けば、「徳不孤、必有隣」という具合に、わずか六文字で言い表されたシンプルな言葉です。これを「徳は孤ならず、必ず隣有り」と読み下し、「徳とは、孤立した孤独なものでは無く、それを認めてくれる人が、きっと周囲にあらわれる」というように解釈されています。

私はこの解釈を読んで、「何とも独り善がりな心境を投影した解釈なんだろう」と感じてしまいました。この解釈を、ホントに学者さんらしいものだと思ってしまったのです。学問というものには、確かに孤独な部分があり、自身の研究や考え方を世間に認めてもらうまでに相当な苦労もあるでしょう。仕事においても、同様のケースは幾らでもあると思います。しかし、「徳」というものは、「学問であって学問にあらず」というべきものの一つです。

「徳」は、「仁」や「義」・「礼」・「信」などと共に、いわゆる「道徳」の根幹をなすものです。しかし、「徳」は学ぶだけのものではなく、普段の生活の中で取り組まねばならない実践学です。「徳」は人と人との関係を円滑にするための作法でありルールですから、人の中にあってこそ、検証もできれば実践もできるものだと思うのです。「徳不孤」という言葉は、それを説く言葉でしょう。

「孤」も「独」も、「一人きり」という意味を持つ漢字ですが、少し違う意味もあります。「独」とは、外部との接触を絶った(絶たれた)状態を示す漢字です。もう片方の「孤」という漢字は、内部とのつながりが絶たれた状態を表しているのです。血のつながった者がいない子供を、孤児と書くように、身を寄せるハズの身内のものがいない状態を「孤」という漢字で表しているのです。助けてくれる者が内部にいない場合に、孤軍奮闘しなくてはならないのですね。

必有隣」の「隣」は、「連なったもの」を表現する場合に使われる漢字です。隣人とは、自分のそばにつながっている人という意味ですね。ですから、「必有隣」は「理解をしてくれる人が必ず有る」ということではなく、「つながりというものが必要不可欠なもの、有するべきもの(持たなくてはならないもの)なのですよ」と解釈するほうが、意味が通じると思うのです。ここでは、「孤」と「隣」とが対比をなしていることは、今さら言うまでも無いことですが、対(つい:対比)の妙を如何に読み解くかで、解釈が異なるのですね。

まとめると、「徳というものは、身内のなかに学べるものであって、それを絶った孤高のものではなく、人とのつながりというものがあって、はじめて学べるものなのですよ」というように、孔子がおっしゃられたのでしょう。聖書でいえば、「人はパンのみに生きるにあらず」に通じるのでしょう。

近頃は、愛国心とか品格という言葉が流行っていますが、この言葉の源流にあるものが「徳」だと思うのです。しかし、近頃のエライ人は「徳」というものを、「得」や「特」とカン違いされているように思います。欲得や特権意識が横行して、「徳」を省みることのない人たちに、愛国心とか品格という言葉は、どう映っているのでしょうね。「美しい国」を何度聞かされても、伝わっては来ない・・・・・・というのは、私だけでは無いように想うのですが。。。つながっているのは私たちなのですが、目を向けてはもらえないのでしょうか。

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2007年2月9日

論語を読む:学ぶことと習うこと(後編)

論語・学而編第1

人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや。
「人不知而不
、不亦君子乎。」

論語の学而編第一の冒頭、「子曰、学而時習之、不亦説乎。」で始まる一節の最後に来るのが、この言葉「人不知而不慍、不亦君子乎。」です。この言葉の意味を解くためのキーワードになる漢字は、何といっても「」でしょう。」は常用漢字には含まれていませんが、訓読みとしては「る(いか-る)」る(いきどお-る)」、慍む(うら-む)」などがあります。る(いか-る)」は“怒る”に、る(いきどお-る)」は“憤る”に、そして慍む(うら-む)」は“怨む・恨む”に置き換えて表記しています。

」という漢字を使った熟語には・・・・・・
慍色・慍容:怒りを含んだ顔つき。
慍倫:心にわだかまりがあって、上手く表現できない様子。
慍見:むっと怒った様子で人に会うこと。
慍怒:憤る。腹を立てる。
・・・・・・などがあります。これらの熟語から類推すると、腹立たしい感情を抑えつつも、顔色に出てしまうようなものを
」という漢字で表しているように思います。もうすこし砕けた表現に言い換えると、ふてくされた様子とか、機嫌を損ねているような状態でしょうか。怒りをストレートに表すのを“陽”とすれば、“陰”は回りくどく表しますから、言葉に出さずに目で訴えるような表現の仕方でしょう。何だか、相手の不快感を持続させるような表現の仕方ですし、これでは互いの妥協点が見つからずに、近寄り難い雰囲気になりますね。このように考えると、「不慍」は「ふて腐れず」という感じに読み解くのが妥当ではないでしょうか。

自分の考えを他人に理解してもらえないからといって、そこでふて腐れていては事態は打開しませんからね。また、相手との接点を自ら閉ざしてしまっては、成長というものがありません。互いの考えを突き合わせること無しに、解決点を見出すことは不可能ですよね。まあ、それができずに武力抗争や戦争が繰り返されてきたのですから、容易なことではことではないのですが、自らが謙虚な姿勢でいれば、大概のことは打開できるものですよ・・・というように解釈したいと思います。

そして、論語には、「不亦君子乎。」という言葉(フレーズ)が頻繁にでてきます。これには、「君子だね」とか「君子ではないか」というような訳文が、多くの本に付けられています。しかし、これを孔子の言葉として読むと、如何にも自慢げな物言いに感じ取れてしまうのです。孔子とて、自らを完全無欠な人間とは考えていなかったし、人としての「あるべき姿」を考える求道者でもあったのですから、こういった訳文が適切だとは思えないのです。そういうことで、「君子たるべきことではないか」という表現に、私は捉えています。

ということで、私が考える日本語訳は、

人(と互いの思いを)知らずして、(ふて腐れたように)慍(うら)みず、また君子たらずや。

人との仲というものは相互理解が肝要であり、ふて腐れたように接するよりも謙虚に振舞うことのほうが、君子たるべき道を歩むことではないか

・・・・・・と、考えるのです。

論語の導入部にあたる「学而編第一の冒頭で、学びとは何なのか?・・・・・・ということについて書かれたもの(であるはず)ですから、「論語」を読むための心構えが述べられているのでしょう。そして、この言葉は、他の先哲が遺した書物に接する場合のスタンスのありかたにも通じるものでしょう。

私は、記事を公開で書くことによって、愚昧である自らが少しでも学ぶことができればという想いで、このブログを始めました。そして、自らを戒めて、学ぶことに対する謙虚さを肝に銘じる意味もありまして、この一節を最初の記事に選んだ次第です。しかし、浅学の小人ですから、間違った内容を綴って、その正体を露見させることもしばしばだと思います。その時は、心優しいフォローをお願い申し上げます。

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2007年2月5日

論語を読む:学ぶことと習うこと(中編)

論語・学而編第1

朋有り、遠方より来る、また楽しからずや。
有朋自遠訪来、不亦楽乎。

前回の記事に書いた「子曰、学而時習之、不亦説乎。」に続くこの言葉には、どのような意味が含まれているのかを考えてみました。

「学んだことを時(事あるごと)にこれを(重ねて)習えば、また(更に理解できて)よろこばしいことではないか。」というスタンスで学究を行えば・・・

「学究することにインスパイア(感応)しあえる朋友ができ、遠方にも交友関係が広まって訪れたり来たりという行き来がうまれて、これもまた楽しいことではないか」

・・・というように、説いているのではないでしょうか。知識の刷り込みだけでは、お互いが競い合うだけという、いまでいう受験戦争(使い古された言葉ですね)のような状態になって、朋友といえるものなど出来ようがありません。互いが同様の、あるいは類似関連したことを学び合う中に相互の影響関係が生まれ、それぞれが
硯学に励むことができるのだと思うのです。

昔の中国で科挙という官吏の選抜試験が行われていたというのは有名な話ですが、それが政治腐敗の温床になったことも度々です。広範な知識を、より多くアタマに刷り込んでいる者を選抜するというだけでは、賢明な政(まつりごと)を行うことにならなかったというのは、歴史によって繰り返し証明されていることです。

ところが、今の日本で行われているのは、入進学から就職試験に至るまで、記憶力を競う選抜試験が横行しています。さらに、学習するという意味から外れて、選抜試験に受かるためのテクニックを磨く教育が主流になっています。その結果として、個々が持つ才能や適性を、芽の段階で刈り取ってしまう、教育という名称の強育(強制教育)や矯育(矯制教育)が行われているのです。このような状況では、型からハミ出す人間を振り分けることはできても、型破りな人物ほ輩出することはできないでしょう。教育再生などと声高に叫んでも、この根本的な間違いが正されない限り、本当の改革にはならないと思います。

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2007年2月3日

論語を読む:学ぶことと習うこと(前編)

論語・学而編第1

子曰く、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。
 「子曰、学而時習之、不亦説乎。」

この言葉は、『論語』の学而編の冒頭に載っているものです。ここにある「時」・「習」・「説」という三つの文字が、とても気になるのです。『論語』というものは、一般の人に向けて語られたものではなく、孔子が弟子に対して語ったことを記録編纂した書物といわれています。弟子として孔子から入門を許された者であれば、相応の能力を有する人物であったはずですから、一度聞けば忘れることは無いものと思えます。だとすれば、「習」の意味を単純に、「ならう」とか「復習する」というように解釈することに疑問を持つわけです。

「習」という字は、鳥が繰り返し羽根を動かすことで飛び方を覚えるというところから成り立っているようです。そこから類推すると、脳に働きかけて記憶することではなく、繰り返すことで覚えるという意味を持つのでしょう。単純に考えれば繰り返し復習するということでしょうが、有能な弟子達に対する孔子の教えだとすると、記憶するという意味ではなさそうです。

次に「時」という字ですが、「時間(time)」とか「時々(some time)」というというのが主な意味でしょう。very timeということになると、「常・常時」という表記になります。また、some timeとevery timeの間い、any timeという言葉が存在し、訳すると「何時でも・適宜」になります。この中で、先ほどの「習」と組み合わせが良いものを選ぶとすれば、「何時でも・適宜(any time)」が最もしっくりとするように思います。適宜というのは、「程よいタイミングで」とか、「折にふれて」・・・というように考えれば良いでしょう。では、どういうタイミングが「習」と結びつくのでしょう。

「程よいタイミングで」とか「折にふれて」というのは、時間のひとコマであり、普段の生活の中の一場面と考えます。普段の生活の場面場面で覚えたことを思い出し、反芻し、考えて、そして理解して身に付けなさい・・・というのが、「習」の意味するものではなかったのかと思うのです。学んだことを活用する場は、意識さえしていれば見つかるものです。そのスタンスの先に、理解や気付きというものがあるのでしょう。

では、「説」というのは、どのように「よろこばし」いのでしょう。この漢字は、「言」と「兌」から成り立つ会意形声文字です。「言」は「ことば」とか「いう」、ハッキリと発音するという意味です。一方の「兌」には「抜け出る」や、「解き放つ」という意味があるようです。よって、「説」には、「心のしこりが解けてよろこぶ」という意味があるのですね。今まで見えなかったものが、モヤモヤが解けて確認できるようになった時のよろこびというようなものですね。「説乎(よろこばしからずや」というのは、「?」が「!(そうか!)」に変わることで味わえる「よろこばし」さなんだと思います。

「学習」するということは、覚えるとか記憶するという次元のものとは少し違うのですね。日本では、頭の中に刷り込むように、覚えさせたり暗記させたりすることが教育と考えられているようです。応用力や思考力を付けさせる教育もされてはいますが、同じ次元の中でのテクニックを説いているだけだと思うのです。「学ぶ」ということの延長線上には、更なる疑問点の発見があります。そして、その疑問を解消するために、それまでに覚えたことを基に思考したり応用したりして思索し、仮説を立てて検証するという行為を繰り返すことで、一段高い次元に到達するワケです。

ところが現在の日本の教育では、より多くの事柄をアタマの中にプリンティングできているか否かを評価の基準にしています。ですから、「成績」が良くても「賢さ」の足りない人物が排出されてしまうのでしょう。そして、低次元レベルでの能力に優れているものが試験をパスして、低次元の教育を再創出したり、政治や行政に携わったり、あるいは知識人・識者として低次元の情報をマス媒体から発信するというような悪循環を生み出しているのです。

「成績」の良さを能力の高さとカン違いして、「賢さ」を知らないでいる者には、「五常(仁・義・礼・智・信)」の本質や「五情(喜・楽・慾・怒・哀)」の機微など理解できないものです。ですから、「五徳(温・良・恭・倹・譲)」を嘲笑うかのように忘却し、「五濁(劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁)」にまみれるどころかドップリと漬かっていることにも気付かない社会が形成されているのです。釈迦や孔子、キリストなどの聖賢は、このような事態を予測して、さまざまなメッセージを残しているのでしょう。

「学びて時にこれを習う。またよろこばしからずや」という言葉に表される「よろこび」とは、ある意味自転車に乗ることができるようになった時とか、泳ぎを覚えた時の喜びのようなものではないでしょうか。いくら教わっても乗ることができずに、教わったことを意識しながら繰り返しチャレンジすることによって乗りこなせるようになるということに通じると思うのです。そして、それまでの「?」が、「!(そうか!)」に変わることというのは、単に理解できるようになったというだけではないでしょう。その人の頭脳の中に、新たな思考回路が構築されたということでもあって、そこから更なる思考が展開され、新たな可能性が開けるということにもなるんじゃないかと考えます。

ということで、私が思う日本語訳は・・・

子曰く、学んだことを時(事あるごと)にこれを(重ねて)習えば、また(更に理解できて)よろこばしいことではないか。

・・・となります。

このように考えると、論語の冒頭にこの言葉が書かれていることの必然性のようなものを感じます。論語とは、単に読んで覚えるものではなく、自らの思考回路を構築するためのツールである・・・というメッセージに思えてきます。

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