論語を読む:学ぶことと習うこと(後編)
論語・学而編第1
人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや。
「人不知而不慍、不亦君子乎。」
◇論語の学而編第一の冒頭、「子曰、学而時習之、不亦説乎。」で始まる一節の最後に来るのが、この言葉「人不知而不慍、不亦君子乎。」です。この言葉の意味を解くためのキーワードになる漢字は、何といっても「慍」でしょう。「慍」は常用漢字には含まれていませんが、訓読みとしては「慍る(いか-る)」、「慍る(いきどお-る)」、「慍む(うら-む)」などがあります。「慍る(いか-る)」は“怒る”に、「慍る(いきどお-る)」は“憤る”に、そして「慍む(うら-む)」は“怨む・恨む”に置き換えて表記しています。
◇「慍」という漢字を使った熟語には・・・・・・
慍色・慍容:怒りを含んだ顔つき。
慍倫:心にわだかまりがあって、上手く表現できない様子。
慍見:むっと怒った様子で人に会うこと。
慍怒:憤る。腹を立てる。
・・・・・・などがあります。これらの熟語から類推すると、腹立たしい感情を抑えつつも、顔色に出てしまうようなものを「慍」という漢字で表しているように思います。もうすこし砕けた表現に言い換えると、ふてくされた様子とか、機嫌を損ねているような状態でしょうか。怒りをストレートに表すのを“陽”とすれば、“陰”は回りくどく表しますから、言葉に出さずに目で訴えるような表現の仕方でしょう。何だか、相手の不快感を持続させるような表現の仕方ですし、これでは互いの妥協点が見つからずに、近寄り難い雰囲気になりますね。このように考えると、「不慍」は「ふて腐れず」という感じに読み解くのが妥当ではないでしょうか。
◇自分の考えを他人に理解してもらえないからといって、そこでふて腐れていては事態は打開しませんからね。また、相手との接点を自ら閉ざしてしまっては、成長というものがありません。互いの考えを突き合わせること無しに、解決点を見出すことは不可能ですよね。まあ、それができずに武力抗争や戦争が繰り返されてきたのですから、容易なことではことではないのですが、自らが謙虚な姿勢でいれば、大概のことは打開できるものですよ・・・というように解釈したいと思います。
◇そして、論語には、「不亦君子乎。」という言葉(フレーズ)が頻繁にでてきます。これには、「君子だね」とか「君子ではないか」というような訳文が、多くの本に付けられています。しかし、これを孔子の言葉として読むと、如何にも自慢げな物言いに感じ取れてしまうのです。孔子とて、自らを完全無欠な人間とは考えていなかったし、人としての「あるべき姿」を考える求道者でもあったのですから、こういった訳文が適切だとは思えないのです。そういうことで、「君子たるべきことではないか」という表現に、私は捉えています。
ということで、私が考える日本語訳は、
人(と互いの思いを)知らずして、(ふて腐れたように)慍(うら)みず、また君子たらずや。
人との仲というものは相互理解が肝要であり、ふて腐れたように接するよりも謙虚に振舞うことのほうが、君子たるべき道を歩むことではないか
・・・・・・と、考えるのです。
◇論語の導入部にあたる「学而編第一」の冒頭で、学びとは何なのか?・・・・・・ということについて書かれたもの(であるはず)ですから、「論語」を読むための心構えが述べられているのでしょう。そして、この言葉は、他の先哲が遺した書物に接する場合のスタンスのありかたにも通じるものでしょう。
◇私は、記事を公開で書くことによって、愚昧である自らが少しでも学ぶことができればという想いで、このブログを始めました。そして、自らを戒めて、学ぶことに対する謙虚さを肝に銘じる意味もありまして、この一節を最初の記事に選んだ次第です。しかし、浅学の小人ですから、間違った内容を綴って、その正体を露見させることもしばしばだと思います。その時は、心優しいフォローをお願い申し上げます。
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