哲義繙無碌(てつぎはんブログ)とは、先哲の義訓を繙(ひもと)き記録したものです! 40代を前にして隠棲し、小商いと執筆生活に勤(いそ)しむ愚昧なる小隠が、先哲の教えを中心に、愚拙に解釈する趣味的無碌=ブログです☆

2007年5月17日

天地和気、人心喜神‐菜根譚より

『菜根譚』‐前集6より

天地に一日も和気無かるべからず、人心に一日も喜神無かるべからざる。
テンチにイチニチもワキナかるべからず、ジンシンにイチニチもキシンナかるべかざる。


天地不可一日無和気、人心不可一日無喜神。

【意訳】天地の間には一日であっても和める陽気が無くてはならなず、(これと同じように)ひとの心にだって一日でも喜び和む気持ちが無くてはならない。

5月18日が“国際善意デー”(参照:ウィキペディア)に制定されていることにちなんで、『菜根譚(さいこんたん)』の前集に収められている一節を選んでみました。この言葉の意味するところは、気象が移り変る中にも快い晴れの日があるように、人の心の中にも快い喜び和む気持ちは欠かせない、ということでしょう。天気の移り変わりよりも早くて不安定なのが人の心でもあるのですが、気象と人の心の変化を対比させているところが、この一節の面白いところだと思います。

天気は移り変っても、心地よい陽気が再びめぐって来るものですが、人の心は不安定でありながらも悪い状態が長く続くこともあります。「待てば海路の日和あり」という成句もありますが、辛抱できない弱さもあります。気象には、晴れの日も雨の日も時には嵐の日もありますが、やがて晴れの日が戻ってきます。天気の変化には循環するというサイクルがあって、それでバランスが取れているわけですが、バランスを忘れてしまいがちなのは人の心です。

心のバランスを崩してしまうと、人間関係というバランスにも影響します。それが絡み合ってスパイラル構造になると、なかなか抜け出せなくなってしまいます。自分では周囲に気を配っているように思っていても、周りから見れば心を開いているようには見えないのですね。そこに欠けているものに、陽気があるのではないかと思います。そこで、自分も周囲も陽気になれる話題を見つけるのも一策ですが、やはり効果的なのは行動ではないでしょうか。大切な人に接するように、大切に思い合いたい人と共に心が和みあえる行動が陽気に結び付くのだと思います。そして、善意は、そういう行いと似ているのではないでしょうか。喜び和む気持ちを分かち合えることを考え、それを試してみる。やがてそこに陽気というものが生まれるのでしょう。

人の心情が気象と似ているようで違うところは、悪い気から悪い気が再生され、良い気から良い気が生み出されるという、天気とは違ったサイクルを生み出せることです。相手を思い遣るという善意があれば、良い気が生み出されるのです。陰気も陽気も、一つひとつの心の内側から生み出されるものだと思います。

余談ですが、善意と聞くと、寄付ということも連想します。寄付という「善行」は素晴らしいことだと思うのですが、中には寄付するという行為の裏側で悪どい儲け方をしていて、“善意”なのか“贖罪(ショクザイ)”なのか区別が付かない場合もあって、スッキリしないものを感じることもありますね。また、「私はカクカクシカジカの寄付をしています」と公言してはばからない人もいます。善行というものは、人に気付かれないようにした方がカッコイイですし、良い気を呼び込むという点でも効果があるのですが、「カクカクシカジカの寄付」ができていない者が言っても意味が無いですかね。カネが無い者なりの善意とは、次元の違う話なんでしょうから、無い者なりに考えてみます。

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2007年5月6日

論語の三省は薬石に通ず‐菜根譚より

『菜根譚』‐前集147より

己を反りみる者は、事に触れて皆薬石と成る。
オノレをカエりみるモノは、コトにフれてミナヤクセキとナる。


反己者、触事皆成薬石。


論語の学而編第一の四に、「曾子曰、吾日三省吾身」という言葉があります。この読み下し文(訳)には「曾子曰く、吾れ日に三たび吾が身を省(かえりみ)る」というものと、「曾子曰く、吾日に三つ吾が身を省みる」、「曾子曰く、吾れ日に吾身を三省す」とするものがあります。私自身は、最後の「吾身を三省す」という読みのほうがシックリと来るのですが、これについては『論語☆ノート‐哲義繙無碌2号館☆』で、いずれ書くことに致します。

で、これに通じるのが『菜根譚(さいこんたん)』に記されている、冒頭の言葉だと思うのです。この「己を反りみる者は、事に触れて皆薬石と成る」という言葉の後には、「人を尤(とが)むる者は、念を動かせば即(すなわ)ち是(こ)れ戈矛(カボウ)なり」という言葉が続きます。

事に当たって、自らの言動や行いを振り返る人は、あらゆる物事が自分自身にとっての薬や鍼灸の針となるが、反省すべきことを他の人の責任に結び付けようとする人は、ことごとくに心や思いをそれに結び付けようとするばかりで、それが自分自身を傷つける矛(ほこ:槍)のようになってしまう・・・・・・という意味ですね。

人には自己防衛本能というものもあるようですから、自分自身の立場を守ることに執着するのも致し方の無いことではあります。しかし、こればかりでは相互理解というものが成り立たないわけで、結局は自分自身を窮地に追い遣ることになるんですよね。

事に臨んで周囲に対する目配りをしないから、結果が見えてきたところで都合の良い自己分析をしてしまい、非は我にあらずという態度に出てしまうのでしょうね。自身の言行をリアルタイムにチェックするというスタンスが大切なのだと思いました。そのチェックするべき基準というものも大切ですけどね。そして、基準になるものを一言で表現すれば、中国思想の「中庸」という言葉に集約されるのでしょうが、これがまた奥の深いものなのですね。このブログを書く目的の一つが、「中庸」を知ることにあるのですが、愚昧な人間であるワタクシには荷が重い話です。遅々としてはいても、気持ちはブレないようにしたいと思います。


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