論語の三省は薬石に通ず‐菜根譚より
『菜根譚』‐前集147より
己を反りみる者は、事に触れて皆薬石と成る。
オノレをカエりみるモノは、コトにフれてミナヤクセキとナる。
反己者、触事皆成薬石。
◎論語の学而編第一の四に、「曾子曰、吾日三省吾身」という言葉があります。この読み下し文(訳)には「曾子曰く、吾れ日に三たび吾が身を省(かえりみ)る」というものと、「曾子曰く、吾日に三つ吾が身を省みる」、「曾子曰く、吾れ日に吾身を三省す」とするものがあります。私自身は、最後の「吾身を三省す」という読みのほうがシックリと来るのですが、これについては『論語☆ノート‐哲義繙無碌2号館☆』で、いずれ書くことに致します。
◎で、これに通じるのが『菜根譚(さいこんたん)』に記されている、冒頭の言葉だと思うのです。この「己を反りみる者は、事に触れて皆薬石と成る」という言葉の後には、「人を尤(とが)むる者は、念を動かせば即(すなわ)ち是(こ)れ戈矛(カボウ)なり」という言葉が続きます。
◎事に当たって、自らの言動や行いを振り返る人は、あらゆる物事が自分自身にとっての薬や鍼灸の針となるが、反省すべきことを他の人の責任に結び付けようとする人は、ことごとくに心や思いをそれに結び付けようとするばかりで、それが自分自身を傷つける矛(ほこ:槍)のようになってしまう・・・・・・という意味ですね。
◎人には自己防衛本能というものもあるようですから、自分自身の立場を守ることに執着するのも致し方の無いことではあります。しかし、こればかりでは相互理解というものが成り立たないわけで、結局は自分自身を窮地に追い遣ることになるんですよね。
◎事に臨んで周囲に対する目配りをしないから、結果が見えてきたところで都合の良い自己分析をしてしまい、非は我にあらずという態度に出てしまうのでしょうね。自身の言行をリアルタイムにチェックするというスタンスが大切なのだと思いました。そのチェックするべき基準というものも大切ですけどね。そして、基準になるものを一言で表現すれば、中国思想の「中庸」という言葉に集約されるのでしょうが、これがまた奥の深いものなのですね。このブログを書く目的の一つが、「中庸」を知ることにあるのですが、愚昧な人間であるワタクシには荷が重い話です。遅々としてはいても、気持ちはブレないようにしたいと思います。
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