三心の心得-『典座教訓』に学ぶ折り合いの付け方
『典座教訓』より。
喜心、老心、大心を保持すべき者なり。
キシン、ロウシン、タイシンをホジすべきモノなり。
可保持喜心、老心、大心者也。
【意訳】喜びと感謝の心、親が子を思うように思い遣る心、山や海のように包容力があって偏りのない心を持つべきである。
◎『典座教訓(てんぞきょうくん)』は、禅宗の一つである曹洞宗の開祖である道元禅師が記したものです。典座(てんぞ)とは、禅の修業をする道場における6つの職務のひとつで、修行僧たちの食事を作る役のことです。典座という職務は、道心(心身をもって仏道を求める心)に目覚めた人の中でも優秀な人だけに与えられるものであるということも同書に書かれています。この言葉は、典座という重要な職務を遂行する上での心得として説かれているものですが、暮らしの知恵を著したものとしても価値ある作品だと思います。
◎前回の記事では、“折り合い”こそが、人が如何に伏すかということに結び付くということをかきましたが、今回の記事は、“折り合い”とは何かを、先哲の典籍に求めてみました。そして、「喜心」、「老心」、「大心」という三つの心である三心というものが、“折り合い”を具体的に説明するものだと思い、取上げることにしたのです。三心は仏道に身を置く者だけではなく、私たちの日常生活の心得としても有益なものでしょう。
◎「喜心」は喜悦の心であると説かれています。これに続いて、、もし天上に生まれていたとしたら、楽しいことばかりで信仰心が芽生えることもないであろうと記されています。何の悩みも苦労もなければ、幸福であることの意味を知ることもなく、信仰心を持つこともなければ悟りを開くこともなく無為に過ごすだけで、この世に生を享けた意味を持たないということなのでしょう。「喜心」とは、喜びと感謝の心ですが、自身が望まない境遇や状況にあっても、それが与えられたものであることを享受するところから、これを喜び感謝するという心が生まれるのでしょう。そして、不平不満や恨み言の中ではなく、楽しもうとする心の中にこそ自己変革と成長があるということなのでしょう。
◎「老心」は、父母が子を思う心であると説かれています。我が子に抱く慈愛の心を持って人に接するということで、そこには無私の愛というものがあります。子供が病気になった時に、自分が身代わりになってやりたいと思う心は献身的で無償のものです。このように書くと、通常の暮らしの中では大げさに思えるかも知れませんが、代償を求めない慈愛の心は、チョッとした生活シーンの中にも見出すことができるものではないでしょうか。
◎「大心」 とは、心を大山のように、あるいは大海のようにして、心が偏ることもなければ、一時的な利害によって周りに同調[党同]することもない、悠然とした心であると説かれています。小さなことに囚われていては際限がなく、何時も思い悩むことになりますが、大局的な見識眼を養うことで、小事に動じることや惑わされることから開放されて、ゆったりとした広い心を持つことができるのでしょう。実際に、小さなことにくよくよしてばかりいる人に限って、肝心なことを見逃しているものです。これは物事を見る視点とか判断の仕方が間違っているんでしょうね。
◎「喜心」、「老心」、「大心」、この三つの心を意識することで、その人の中に“徳”と“仁”とが備わるのでしょう。この三心を知ったからといって、簡単に実践できるものではないですよね。しかし、だからと言って読み過ごすのではなく、意識することが大切なのだと思います。身構えてしまうとできにくいものですが、意識的に覚えておくだけのほうが意外とタイミングよく思い出せて、気が付いたら実践できていたりするものです。
◎追い風を受けているときは、少々間違ったことをしても大勢に影響が出ないものですが、向かい風が吹いているときとなると、小さなミスが大きな問題に発展してしまうものです。そして、向かい風のときほど、がむしゃらに突き進もうとするものですから、疲れてしまって冷静さも失うものです。向かい風に対する“折り合い”の付け方としても、この三心を心得ていれば消耗することなく知力と体力を養うことができると思います。それによって、「飛ぶこと必ず高く」なるのですね。
☆ ブログランキング←←どっち?→→ブログランキング