哲義繙無碌(てつぎはんブログ)とは、先哲の義訓を繙(ひもと)き記録したものです! 40代を前にして隠棲し、小商いと執筆生活に勤(いそ)しむ愚昧なる小隠が、先哲の教えを中心に、愚拙に解釈する趣味的無碌=ブログです☆

2010年2月8日

良寛さんの漢詩「円通寺」:清貧たるべし

「円通寺(えんつうじ)

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自来円通寺

円通寺に来たりて

幾度経冬春

幾度か冬春を経ん

門前千家邑

門前に千家の邑(ユウ)

更不知一人

一人をも知らずにへる

衣垢手自濯

衣の垢は自ら手で濯(あら)い

食尽出城闉(ジョウイン)

食尽きれば城闉(ジョウイン:城の外郭の門)に出ず

曾読高僧伝

曾(か)って高僧の伝を読むに

僧可可清貧
僧可は清貧なる可(べ)しと

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【現代語訳】

円通寺(岡山県倉敷市)に来てから、
幾たびかの冬と春が過ぎた。

門前の邑(むら)には多くの家々が在るのに、
誰一人知ることなく過ぎた。

垢のついた僧衣は自らの手で洗い、
食料が尽きれば城の外門まで托鉢に歩く。

昔読んだ高僧の伝には、
僧は清貧たるべしと記す。

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【感想】

“只管打坐(しかんたざ)”を旨とする曹洞禅を貫いていた、若き日の良寛さんの姿を想う。

子供の頃に、良寛さんと共に知ったのが一休さんだが、そちらは公案禅の僧である。

市井に出てコミュニケーションをとる一休さんが陽の禅僧とするならば、この良寛さんは陰の禅僧であるように思う。

ただ、どちらも本物の僧であることには変わりはないのだが、最近は良寛和尚のほうが気になる。

ひたすらに打ち込む。その姿に力みが無いことに魅力を感じる。


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久しぶりの投稿です。無事に生きてはおるのですが、生来の不精を抑えることができぬままです。いま少し投稿頻度を上げるべく、何らかの手を打たねばと思案をしております。