良寛さんの漢詩「円通寺」:清貧たるべし
「円通寺(えんつうじ)」
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自来円通寺
円通寺に来たりて
幾度経冬春
幾度か冬春を経ん
門前千家邑
門前に千家の邑(ユウ)
更不知一人
一人をも知らずにへる
衣垢手自濯
衣の垢は自ら手で濯(あら)い
食尽出城闉(ジョウイン)
食尽きれば城闉(ジョウイン:城の外郭の門)に出ず
曾読高僧伝
曾(か)って高僧の伝を読むに
僧可可清貧
僧可は清貧なる可(べ)しと
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【現代語訳】
円通寺(岡山県倉敷市)に来てから、
幾たびかの冬と春が過ぎた。
門前の邑(むら)には多くの家々が在るのに、
誰一人知ることなく過ぎた。
垢のついた僧衣は自らの手で洗い、
食料が尽きれば城の外門まで托鉢に歩く。
昔読んだ高僧の伝には、
僧は清貧たるべしと記す。
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【感想】
“只管打坐(しかんたざ)”を旨とする曹洞禅を貫いていた、若き日の良寛さんの姿を想う。
子供の頃に、良寛さんと共に知ったのが一休さんだが、そちらは公案禅の僧である。
市井に出てコミュニケーションをとる一休さんが陽の禅僧とするならば、この良寛さんは陰の禅僧であるように思う。
ただ、どちらも本物の僧であることには変わりはないのだが、最近は良寛和尚のほうが気になる。
ひたすらに打ち込む。その姿に力みが無いことに魅力を感じる。
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久しぶりの投稿です。無事に生きてはおるのですが、生来の不精を抑えることができぬままです。いま少し投稿頻度を上げるべく、何らかの手を打たねばと思案をしております。
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