哲義繙無碌(てつぎはんブログ)とは、先哲の義訓を繙(ひもと)き記録したものです! 40代を前にして隠棲し、小商いと執筆生活に勤(いそ)しむ愚昧なる小隠が、先哲の教えを中心に、愚拙に解釈する趣味的無碌=ブログです☆

2008年6月15日

善とは、善の在り方とは何か―積善の家には必ず余慶あり[積善余慶]

積善の家には必ず余慶あり[積善余慶]

積善之家必有餘慶。積不善之家必有餘殃。

積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。

『易経』[(周易上経)坤・文言伝]より引用。

積善余慶という言葉は、四字熟語や名言として目や耳にすることが多いのですが、これが『易経』に由来していることを、私は『易経』を読むまで知りませんでした。この言葉は、『易経』の卦を解説する[文言伝]に書かれているものです。

「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という部分を現代語に意訳すると、「善(よいこと)を積み重ねた家では、その恩恵が子孫におよび、不善(よくないこと)を積み重ねた家には、その災いが子孫にまで及ぶ。」というようになります。

「善」を善(よ)い行いと解釈すると、人に対して親切であったり助けになったりして、相手から感謝されるような行いが「善」であるように思われます。そして、ここで言う人とは家族ではなく他人様を指すもので、「家族以外の人にまでも善意を持った行いをしていれば、それが積み重なって、自分自身の子供や孫の代にいたっても幸福に恵まれる」ということを説いていることになります。だとすると、もう一方の「積不善の家には必ず余殃(よおう)有り」というのは、「人様に対して善意に欠ける行いをすれば、孫子の代にいたっても災難に遭う」と解釈されます。

これは「因果応報」とか「情けは人のためならず(回りまわって自分に還ってくる)」とかと同じような意味であり、極めて道徳的な言葉であるかのように思われます。現に、本やウェブサイトで載せられている「積善余慶」の解釈の多くが、このようなニュアンスで書かれています。書かれていることは人の行うべき道徳として正しくもあるのですが、『易経』で書かれている内容とは少し違うのです。

「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という言葉は、『易経』の「坤為地(こんいち)」という卦を解説する「文言伝」に書かれているものです。「坤為地(こんいち)」というのは全陰・純陰の卦で、全陽・純陽を表す「乾為天(けんいてん)」と対をなす卦です。(下図を参照)

(坤為地)(乾為天)。

「坤為地」というのは天地の地を意味し、天を意味する「乾為天」に従うものであり、従順で貞正な卦であると『易経』では書かれています。地(坤)の動きや働きは、天(乾)に感応するものであり、天(乾)の動きや働きに対して抗うことなく従順であることによって、地(坤)の動きや働きという作用が全(まっと)うされるということでしょう。

「文言伝」には、坤について次のように書かれています。「すべての卦(六十四卦)の中において坤は最も柔なる存在であるが、乾に感応する動きには力強さと確かさ(剛)が備わっていながら静かなものであり、その作用は四方の隅々にまで及ぶものである。(乾の)後ろに位置しすることによって、乾の動きに応じた動きができ、地上のすべての物を含有して生育することができる。坤の道は其れ順なるか。天の動きを受けるところに(坤としての)行い(作用)がある。」

上記を平たく表現すると、坤の作用というのは天の理にかなったものであって、それが淡々と行われるところに坤の柔剛さがあらわれているということでしょう。そして、この後に続くのが、冒頭に掲げた「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という言葉なのです。さらに、この言葉には、次のような文章が続きます。「臣が其の主君を殺(あや)め、子が其の父を殺めるというようなことは、一時的なことが原因で起こるのではなく、その要因となるものが次第に重なっていることに由来するのである」と。

これらの文脈から判断すると、「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という言葉の意味するところが、「家族以外の人にまでも善意を持った行いをしていれば、それが積み重なって、自分自身の子供や孫の代にいたっても幸福に恵まれ、人様に対して善意に欠ける行いをすれば、孫子の代にいたっても災難に遭う」とは少し違うように感じられます。ここでは、坤(こん)が天の理に従って作用するものであるように、主君と臣下の関係や親子や家族の関係も理にかなったものでなければならない、ということを説いているのが「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という言葉なのでしょう。

『易経』の解説では、坤は乾に付き従う存在であるとして解説しているものがあります。これを乾に対して坤が隷属的なものであるとして解釈してしまうと、「善」というものの意味を間違えることになります。坤というのは隷属的なものではなくて、乾に対して忠実に感応し作用する存在であるというのが、正しい解釈だと思います。そして、坤(地)が乾(天)の理に感応して作用するように、人と人との間においても、天の理と同様のあるべき姿によって、その関係が創り出されるというのが、「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」の意味するところなのです。そして、あるべき姿を求めなければ、「臣が其の主君を殺(あや)め、子が其の父を殺めるという」事態を招くことになるのでしょう。

だとすると、「善」とは、人様から感謝されることを意味するのではなく、あるべき姿を求めることなのですね。上司が上司らしく、主人が主人らしく、親が親らしくあってこそ、職場においても家庭においても調和というものが生まれるのです。坤(地)は乾(天)に付き従うのではなく、乾(天)こそが坤(こん)を導く存在であり、坤(地)は乾(天)に感応して動いたり働いたりするのです。ですから、家庭においても、社会においても、あるべき姿である「善」を尽くすことが余慶を生み出すことに通じるのですね。

これと同様の意味を持つのが、『論語』の学而編の第2章です。『論語』では、この章を「目上に従う心こそが、仁(人を慈しみ愛する心)の根本である」と解説しているものが多くあります。しかし、学而編の第2章は、理想的な人間関係を示すために、有子(有若)が坤の意味を説いたものであろうということが
想像できるのです。『易経』の[文言伝]に書かれた「善」とは、他人様に感謝してもらうための善行ではなく、自分自身が身を置くポジションに相応しい生きかたを説いたものだったということですね。

ところで、これを今の世の中と照らし合わせてみると、「善」というものが機能しているとは言い難いですね。世間を騒がす事件は言うまでもなく、政治や行政に携わる人々にしても経済にしても教育にしろ、積善がなされているようには感じられません。こういう場合には、どのような余殃に遭遇するのか、それを考えると恐ろしく思えてきます。

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2008年4月5日

初志貫徹ってこと―騎虎之勢(きこのいきおい)

『五代史』唐臣伝/『隋書』后妃、独孤皇后伝より
[俚語に曰く]虎に騎(の)る者は、勢い下りるを得ず:[俚語曰]騎虎者勢不得下

背に人を乗せた虎は、それを落とそうと必死になって暴れ、虎の背に騎(の)る者は、振り落とされると食い殺される危険がある。一旦虎に騎(の)ってしまったら、最後まで、虎を仕留めるまで下りることはできない。

『隋書』后妃、独孤皇后伝では、「騎
者勢不得下」が「騎者勢必不得下」となっているようです。

漢和辞典の解説には、「虎に乗って走れば、非常な勢いなので途中でおりることはできない」と書かれています。「騎」という字には“馬にまたがる”という意味があるので、「
虎に乗って走れば」という表現になったのでしょう。

この言葉は、騎虎之勢(きこのいきおい)と言われ、一旦始めてしまったことははずみがついて、途中で投げ出すことはできない・・・・・・という意味で使われます。「
騎虎」、虎にまたがるというのは危険なこと、無謀なことだと予(あらかじ)め分かっていることですから、無理とか困難を承知で始めたことであれば、その思いは貫かなくてはならない、というくらいの気迫が込められているように感じます。

この場合、始めてしまった後の困難も予測しながら、最善の対応ができるようにしておく必要も生じます。途中で投げ出さずに遣り遂げることの重要さと崇高さを説いている言葉だと思います。ですから、軽はずみな行動をしてしまった時に使う表現ではありません。その場合には、「やめられない、とまらない~♪」というフレーズがピッタリでしょう。


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2008年3月10日

求むれば則ち之れを得、舎(す)つれば則ち之れを失う

『孟子』告子上編・盡(尽:じん)心上編より
求むれば則ち之れを得、舎(す)つれば則ち之れを失う:求則得之、舎則失之

求めようとする心があれば、それを得ることができるが、その思いを捨ててしまっては、得るはずの物ばかりでなく心をも失ってしまう。

この言葉が意味するところは、聖書に書かれている「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出されん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むるものは得たずねぬる者は見出し、門を叩く者は開かるるなり[マタイ伝二十六章六十四節]」に相通じるものですね。

求めるべきものは、すでに用意されている。あとは、それを求めよとするか否か、その人の心がけや意志によるものだ、ということでしょうか。ただ漫然と思うだけではなく強く念じる心が行動を生み、やがて得ようとしていたものが見えてくるのでしょう。

このブログに記事を投稿するのは昨年の8月6日以来で、実に7ヶ月ぶりになります。そんな私にも求めるモノがありまして、それを得ようとするための行動の一つが先哲の言葉に触れることでした。理由はともかく、未更新の状態が7ヶ月にも亘ってしまうと気恥ずかしいことであり未無念です。今回更新するに当たって、自身への戒めの意味も込めて、この言葉を選んでみました。

私が書いているブログは、もう一つ『論語ノート‐哲義繙無碌2号館☆』というのがありまして、こちらも未更新が続いております。こちらのほうも近日中に更新するつもりです。そっちのほうは、書こうと思っても文章が沸いてこないことが多いのです。これまた自分自身が、論語の一句一句を吸収しきれていないことの表れなんでしょうが、挫けずに喰らい付いていきたいと思っています。念ずれば通ず、ですから。

2007年8月6日

苛政は虎よりも猛し(カセイはトラよりもタケし)

『礼記(らいき)』檀弓下編より

苛政は虎よりも猛し(カセイはトラよりもタケし):苛政猛於虎也

輿車に乗った孔子が泰山のふもとを通り過ぎようとしている時に、墓地で嘆き哀しむ婦人を見付けました。孔子は車上から礼を行ってから、弟子の子路に命じて事情を尋ねさせました。「嘆き哀しむ様子が尋常ではなく、まるで幾つもの不幸が重なっている人のようです」と。婦人はそれに答えて言いました。「そのとおりなのです。昔に私の舅(しゅうと:夫の父)が虎に殺され、夫もまた虎に殺されまして、そして今度は、我が子までもが虎に殺されたのです」。それに対して孔子は、「それでは何故この土地を離れようとはしないのですか?」と問いかけました。すると、婦人はこのように答えました。「この国には、よその国のような苛酷で無慈悲な政治が無いからです」と。この言葉を聞いた孔子は門人達に対して、「苛政というものは虎よりも獰猛で、人の心を怯えさせてしまうものだということを認識しなければならない」と言いました。

この話は、『礼記(らいき)』と呼ばれる中国の古典に書かれている話です。『礼記』は紀元前1世紀に書かれたものとされていますので、今から2,000年以上も前になります。しかし、「
苛政は虎よりも猛し」という話は、現在の世情と大きく変わらないように思えます。片方では収入を得る目途が無い人の生活保護を打ち切ってしまうという話があれば、一方では臨時教員をしている人に対して手厚く生活保護を与え続けているという話もあります。年金問題については、資金の流用額が明らかにされていなくて、支給準備金として幾ら残っているのかも不明です。この国を良くするために汗を流している政治家さんもいれば、その邪魔をして利権を追求するだけの政治屋も多くいます。公僕として働く公務員さんもいれば、私腹を肥やすために役人を続ける人もいます。国家体制や思想の違う国においても、この構図は大きく変わらないようですし、今も昔も苦しめられるのは善良なる国民ということでしょうか。

「善良なる」という言葉も、支配する側から見れば「愚鈍」という意味合いを持つようで、選挙を前に「眠ったままでいて欲しい」という総理大臣もいましたね。で、この人は現総理の続投にも一枚噛んでいるようで、現総理と同様に参議院選挙の大敗も意に介していないようです。ということは、苛政は続くということでしょうかね。



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2007年7月14日

三心の心得-『典座教訓』に学ぶ折り合いの付け方

『典座教訓』より。

喜心、老心、大心を保持すべき者なり。
キシン、ロウシン、タイシンをホジすべきモノなり。


可保持喜心、老心、大心者也。

【意訳】喜びと感謝の心、親が子を思うように思い遣る心、山や海のように包容力があって偏りのない心を持つべきである。

『典座教訓(てんぞきょうくん)』は、禅宗の一つである曹洞宗の開祖である道元禅師が記したものです。典座(てんぞ)とは、禅の修業をする道場における6つの職務のひとつで、修行僧たちの食事を作る役のことです。典座という職務は、道心(心身をもって仏道を求める心)に目覚めた人の中でも優秀な人だけに与えられるものであるということも同書に書かれています。この言葉は、典座という重要な職務を遂行する上での心得として説かれているものですが、暮らしの知恵を著したものとしても価値ある作品だと思います。

前回の記事では、“折り合い”こそが、人が如何に伏すかということに結び付くということをかきましたが、今回の記事は、“折り合い”とは何かを、先哲の典籍に求めてみました。そして、「喜心」、「老心」、「大心」という三つの心である三心というものが、“折り合い”を具体的に説明するものだと思い、取上げることにしたのです。三心は仏道に身を置く者だけではなく、私たちの日常生活の心得としても有益なものでしょう。

「喜心」は喜悦の心であると説かれています。これに続いて、、もし天上に生まれていたとしたら、楽しいことばかりで信仰心が芽生えることもないであろうと記されています。何の悩みも苦労もなければ、幸福であることの意味を知ることもなく、信仰心を持つこともなければ悟りを開くこともなく無為に過ごすだけで、この世に生を享けた意味を持たないということなのでしょう。「喜心」とは、喜びと感謝の心ですが、自身が望まない境遇や状況にあっても、それが与えられたものであることを享受するところから、これを喜び感謝するという心が生まれるのでしょう。そして、不平不満や恨み言の中ではなく、楽しもうとする心の中にこそ自己変革と成長があるということなのでしょう。

「老心」は、父母が子を思う心であると説かれています。我が子に抱く慈愛の心を持って人に接するということで、そこには無私の愛というものがあります。子供が病気になった時に、自分が身代わりになってやりたいと思う心は献身的で無償のものです。このように書くと、通常の暮らしの中では大げさに思えるかも知れませんが、代償を求めない慈愛の心は、チョッとした生活シーンの中にも見出すことができるものではないでしょうか。

「大心」 とは、心を大山のように、あるいは大海のようにして、心が偏ることもなければ、一時的な利害によって周りに同調[党同]することもない、悠然とした心であると説かれています。小さなことに囚われていては際限がなく、何時も思い悩むことになりますが、大局的な見識眼を養うことで、小事に動じることや惑わされることから開放されて、ゆったりとした広い心を持つことができるのでしょう。実際に、小さなことにくよくよしてばかりいる人に限って、肝心なことを見逃しているものです。これは物事を見る視点とか判断の仕方が間違っているんでしょうね。

「喜心」、「老心」、「大心」、この三つの心を意識することで、その人の中に“徳”と“仁”とが備わるのでしょう。この三心を知ったからといって、簡単に実践できるものではないですよね。しかし、だからと言って読み過ごすのではなく、意識することが大切なのだと思います。身構えてしまうとできにくいものですが、意識的に覚えておくだけのほうが意外とタイミングよく思い出せて、気が付いたら実践できていたりするものです。

追い風を受けているときは、少々間違ったことをしても大勢に影響が出ないものですが、向かい風が吹いているときとなると、小さなミスが大きな問題に発展してしまうものです。そして、向かい風のときほど、がむしゃらに突き進もうとするものですから、疲れてしまって冷静さも失うものです。向かい風に対する“折り合い”の付け方としても、この三心を心得ていれば消耗することなく知力と体力を養うことができると思います。それによって、「飛ぶこと必ず高く」なるのですね。


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2007年7月12日

伏すること久しきは、飛ぶこと必ず高し-菜根譚

『菜根譚』後集76より

伏すること久しきは、飛ぶこと必ず高く、開くこと先なるは、謝すること独り早し。
フクすることヒサしきは、トぶことカナラずタカく、ヒラくことサキなるは、シャすることヒトりハヤし。

伏久者、飛必高、開先者、謝独早。

【意訳】長い間にわたって地に伏していたものは、その間に養っておいた力を発揮して、必ず高く飛ぶことができ、先に開いたならば、それだけが他の花よりも早く衰えるものだ。

この言葉のあとには、このように続きます。これを心得ていれば、道が見えなくなって勢いを失うことも、結果をだすことに焦って心を惑わすこともなくなる、と。これを四字熟語で表すと、「大器晩成」ということになるんでしょう。あるいは、不遇な期間を耐えて後に実力を発揮する場を得る場合もあるでしょう。これは、その人の努力天の理気地の利を得て結実する時を迎えるということですね。人が努力を重ねたことが地の利天の理気・天命に適い、「天」「地」「人」の三元が合致することで、それまでの行いが報われるということです。

努力をしても人事を尽くしても、上手く行かない報われないというのもよくある話です。ならば、天命や天の理気というものは、人に対して不平等に訪れたり、イタズラに作用したりするものなのでしょうか。これを中国で生まれた陰陽五行理論に照らして考えると、天の理気が不平等であるということは有り得ず、すべての人に同じように巡って来ます。だとすれば、努力が報われることと報われないこととの違いは、“地の利”“その人の努力”とのいずれか、あるいは両方にあるということになります。言い換えれば、三元の「天」を操ることはできないが、「地」「人」のいずれか、あるいは両方を変えることならできるということになりますね。

「地」を環境とし、「人」を個人の行いとして仮定すると、一番に変えやすいものは「人」といえるでしょう。個人を取り巻く環境には、簡単に変わるものと、変えることが困難なものとがあります。対人関係で言えば、簡単に変えられる(変わってしまう)部分もあれば、容易には変えられない部分もあります。信用を失くすことはスグですが、信用を築くことは容易ではないですよね。まあ、一時的に人を信用させることが得意な人もいますけれども、化けの皮がはがれるのも早いですよね。このように考えると、人は環境との折り合いを付けながら生きなければならないものだと改めて思います。ワタクシのような隠棲の身の者が、“環境との折り合いを付けながら生きなければ”などと書くことは、遠慮しなければならないことではあるのですが、話の流れということで容赦してください、隠棲することによって客観視できることもありますので。

そこで、“折り合い”というのが「伏すること久しき」に通じることで、如何に伏すかということが“折り合い”の付け方なのだと思うのです。“折り合い“の付け方次第で、高く飛ぶこと、すなわち大きな収穫を得ることができるということでしょう。“折り合い”ということについては、今回の記事の出典である『菜根譚』にもイロイロと載っていますし、『論語』にも細かく書かれています。これを抽象的に言い表せば、仁とか徳とかになるのでしょうが、もう少し具体的にまとめた言葉はないものかと思い調べてみると、絶好の言葉がありました。ということで、これを次回の記事のネタにさせていただきます。このブログの場合、次回が何時になるのか不明確なのですが、遅くとも今月中にはUPいたしますので、また読みに来て下さい。


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2007年5月17日

天地和気、人心喜神‐菜根譚より

『菜根譚』‐前集6より

天地に一日も和気無かるべからず、人心に一日も喜神無かるべからざる。
テンチにイチニチもワキナかるべからず、ジンシンにイチニチもキシンナかるべかざる。


天地不可一日無和気、人心不可一日無喜神。

【意訳】天地の間には一日であっても和める陽気が無くてはならなず、(これと同じように)ひとの心にだって一日でも喜び和む気持ちが無くてはならない。

5月18日が“国際善意デー”(参照:ウィキペディア)に制定されていることにちなんで、『菜根譚(さいこんたん)』の前集に収められている一節を選んでみました。この言葉の意味するところは、気象が移り変る中にも快い晴れの日があるように、人の心の中にも快い喜び和む気持ちは欠かせない、ということでしょう。天気の移り変わりよりも早くて不安定なのが人の心でもあるのですが、気象と人の心の変化を対比させているところが、この一節の面白いところだと思います。

天気は移り変っても、心地よい陽気が再びめぐって来るものですが、人の心は不安定でありながらも悪い状態が長く続くこともあります。「待てば海路の日和あり」という成句もありますが、辛抱できない弱さもあります。気象には、晴れの日も雨の日も時には嵐の日もありますが、やがて晴れの日が戻ってきます。天気の変化には循環するというサイクルがあって、それでバランスが取れているわけですが、バランスを忘れてしまいがちなのは人の心です。

心のバランスを崩してしまうと、人間関係というバランスにも影響します。それが絡み合ってスパイラル構造になると、なかなか抜け出せなくなってしまいます。自分では周囲に気を配っているように思っていても、周りから見れば心を開いているようには見えないのですね。そこに欠けているものに、陽気があるのではないかと思います。そこで、自分も周囲も陽気になれる話題を見つけるのも一策ですが、やはり効果的なのは行動ではないでしょうか。大切な人に接するように、大切に思い合いたい人と共に心が和みあえる行動が陽気に結び付くのだと思います。そして、善意は、そういう行いと似ているのではないでしょうか。喜び和む気持ちを分かち合えることを考え、それを試してみる。やがてそこに陽気というものが生まれるのでしょう。

人の心情が気象と似ているようで違うところは、悪い気から悪い気が再生され、良い気から良い気が生み出されるという、天気とは違ったサイクルを生み出せることです。相手を思い遣るという善意があれば、良い気が生み出されるのです。陰気も陽気も、一つひとつの心の内側から生み出されるものだと思います。

余談ですが、善意と聞くと、寄付ということも連想します。寄付という「善行」は素晴らしいことだと思うのですが、中には寄付するという行為の裏側で悪どい儲け方をしていて、“善意”なのか“贖罪(ショクザイ)”なのか区別が付かない場合もあって、スッキリしないものを感じることもありますね。また、「私はカクカクシカジカの寄付をしています」と公言してはばからない人もいます。善行というものは、人に気付かれないようにした方がカッコイイですし、良い気を呼び込むという点でも効果があるのですが、「カクカクシカジカの寄付」ができていない者が言っても意味が無いですかね。カネが無い者なりの善意とは、次元の違う話なんでしょうから、無い者なりに考えてみます。

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