哲義繙無碌(てつぎはんブログ)とは、先哲の義訓を繙(ひもと)き記録したものです! 40代を前にして隠棲し、小商いと執筆生活に勤(いそ)しむ愚昧なる小隠が、先哲の教えを中心に、愚拙に解釈する趣味的無碌=ブログです☆

2007年8月6日

苛政は虎よりも猛し(カセイはトラよりもタケし)

『礼記(らいき)』檀弓下編より

苛政は虎よりも猛し(カセイはトラよりもタケし):苛政猛於虎也

輿車に乗った孔子が泰山のふもとを通り過ぎようとしている時に、墓地で嘆き哀しむ婦人を見付けました。孔子は車上から礼を行ってから、弟子の子路に命じて事情を尋ねさせました。「嘆き哀しむ様子が尋常ではなく、まるで幾つもの不幸が重なっている人のようです」と。婦人はそれに答えて言いました。「そのとおりなのです。昔に私の舅(しゅうと:夫の父)が虎に殺され、夫もまた虎に殺されまして、そして今度は、我が子までもが虎に殺されたのです」。それに対して孔子は、「それでは何故この土地を離れようとはしないのですか?」と問いかけました。すると、婦人はこのように答えました。「この国には、よその国のような苛酷で無慈悲な政治が無いからです」と。この言葉を聞いた孔子は門人達に対して、「苛政というものは虎よりも獰猛で、人の心を怯えさせてしまうものだということを認識しなければならない」と言いました。

この話は、『礼記(らいき)』と呼ばれる中国の古典に書かれている話です。『礼記』は紀元前1世紀に書かれたものとされていますので、今から2,000年以上も前になります。しかし、「
苛政は虎よりも猛し」という話は、現在の世情と大きく変わらないように思えます。片方では収入を得る目途が無い人の生活保護を打ち切ってしまうという話があれば、一方では臨時教員をしている人に対して手厚く生活保護を与え続けているという話もあります。年金問題については、資金の流用額が明らかにされていなくて、支給準備金として幾ら残っているのかも不明です。この国を良くするために汗を流している政治家さんもいれば、その邪魔をして利権を追求するだけの政治屋も多くいます。公僕として働く公務員さんもいれば、私腹を肥やすために役人を続ける人もいます。国家体制や思想の違う国においても、この構図は大きく変わらないようですし、今も昔も苦しめられるのは善良なる国民ということでしょうか。

「善良なる」という言葉も、支配する側から見れば「愚鈍」という意味合いを持つようで、選挙を前に「眠ったままでいて欲しい」という総理大臣もいましたね。で、この人は現総理の続投にも一枚噛んでいるようで、現総理と同様に参議院選挙の大敗も意に介していないようです。ということは、苛政は続くということでしょうかね。



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2007年7月14日

三心の心得-『典座教訓』に学ぶ折り合いの付け方

『典座教訓』より。

喜心、老心、大心を保持すべき者なり。
キシン、ロウシン、タイシンをホジすべきモノなり。


可保持喜心、老心、大心者也。

【意訳】喜びと感謝の心、親が子を思うように思い遣る心、山や海のように包容力があって偏りのない心を持つべきである。

『典座教訓(てんぞきょうくん)』は、禅宗の一つである曹洞宗の開祖である道元禅師が記したものです。典座(てんぞ)とは、禅の修業をする道場における6つの職務のひとつで、修行僧たちの食事を作る役のことです。典座という職務は、道心(心身をもって仏道を求める心)に目覚めた人の中でも優秀な人だけに与えられるものであるということも同書に書かれています。この言葉は、典座という重要な職務を遂行する上での心得として説かれているものですが、暮らしの知恵を著したものとしても価値ある作品だと思います。

前回の記事では、“折り合い”こそが、人が如何に伏すかということに結び付くということをかきましたが、今回の記事は、“折り合い”とは何かを、先哲の典籍に求めてみました。そして、「喜心」、「老心」、「大心」という三つの心である三心というものが、“折り合い”を具体的に説明するものだと思い、取上げることにしたのです。三心は仏道に身を置く者だけではなく、私たちの日常生活の心得としても有益なものでしょう。

「喜心」は喜悦の心であると説かれています。これに続いて、、もし天上に生まれていたとしたら、楽しいことばかりで信仰心が芽生えることもないであろうと記されています。何の悩みも苦労もなければ、幸福であることの意味を知ることもなく、信仰心を持つこともなければ悟りを開くこともなく無為に過ごすだけで、この世に生を享けた意味を持たないということなのでしょう。「喜心」とは、喜びと感謝の心ですが、自身が望まない境遇や状況にあっても、それが与えられたものであることを享受するところから、これを喜び感謝するという心が生まれるのでしょう。そして、不平不満や恨み言の中ではなく、楽しもうとする心の中にこそ自己変革と成長があるということなのでしょう。

「老心」は、父母が子を思う心であると説かれています。我が子に抱く慈愛の心を持って人に接するということで、そこには無私の愛というものがあります。子供が病気になった時に、自分が身代わりになってやりたいと思う心は献身的で無償のものです。このように書くと、通常の暮らしの中では大げさに思えるかも知れませんが、代償を求めない慈愛の心は、チョッとした生活シーンの中にも見出すことができるものではないでしょうか。

「大心」 とは、心を大山のように、あるいは大海のようにして、心が偏ることもなければ、一時的な利害によって周りに同調[党同]することもない、悠然とした心であると説かれています。小さなことに囚われていては際限がなく、何時も思い悩むことになりますが、大局的な見識眼を養うことで、小事に動じることや惑わされることから開放されて、ゆったりとした広い心を持つことができるのでしょう。実際に、小さなことにくよくよしてばかりいる人に限って、肝心なことを見逃しているものです。これは物事を見る視点とか判断の仕方が間違っているんでしょうね。

「喜心」、「老心」、「大心」、この三つの心を意識することで、その人の中に“徳”と“仁”とが備わるのでしょう。この三心を知ったからといって、簡単に実践できるものではないですよね。しかし、だからと言って読み過ごすのではなく、意識することが大切なのだと思います。身構えてしまうとできにくいものですが、意識的に覚えておくだけのほうが意外とタイミングよく思い出せて、気が付いたら実践できていたりするものです。

追い風を受けているときは、少々間違ったことをしても大勢に影響が出ないものですが、向かい風が吹いているときとなると、小さなミスが大きな問題に発展してしまうものです。そして、向かい風のときほど、がむしゃらに突き進もうとするものですから、疲れてしまって冷静さも失うものです。向かい風に対する“折り合い”の付け方としても、この三心を心得ていれば消耗することなく知力と体力を養うことができると思います。それによって、「飛ぶこと必ず高く」なるのですね。


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2007年7月12日

伏すること久しきは、飛ぶこと必ず高し-菜根譚

『菜根譚』後集76より

伏すること久しきは、飛ぶこと必ず高く、開くこと先なるは、謝すること独り早し。
フクすることヒサしきは、トぶことカナラずタカく、ヒラくことサキなるは、シャすることヒトりハヤし。

伏久者、飛必高、開先者、謝独早。

【意訳】長い間にわたって地に伏していたものは、その間に養っておいた力を発揮して、必ず高く飛ぶことができ、先に開いたならば、それだけが他の花よりも早く衰えるものだ。

この言葉のあとには、このように続きます。これを心得ていれば、道が見えなくなって勢いを失うことも、結果をだすことに焦って心を惑わすこともなくなる、と。これを四字熟語で表すと、「大器晩成」ということになるんでしょう。あるいは、不遇な期間を耐えて後に実力を発揮する場を得る場合もあるでしょう。これは、その人の努力天の理気地の利を得て結実する時を迎えるということですね。人が努力を重ねたことが地の利天の理気・天命に適い、「天」「地」「人」の三元が合致することで、それまでの行いが報われるということです。

努力をしても人事を尽くしても、上手く行かない報われないというのもよくある話です。ならば、天命や天の理気というものは、人に対して不平等に訪れたり、イタズラに作用したりするものなのでしょうか。これを中国で生まれた陰陽五行理論に照らして考えると、天の理気が不平等であるということは有り得ず、すべての人に同じように巡って来ます。だとすれば、努力が報われることと報われないこととの違いは、“地の利”“その人の努力”とのいずれか、あるいは両方にあるということになります。言い換えれば、三元の「天」を操ることはできないが、「地」「人」のいずれか、あるいは両方を変えることならできるということになりますね。

「地」を環境とし、「人」を個人の行いとして仮定すると、一番に変えやすいものは「人」といえるでしょう。個人を取り巻く環境には、簡単に変わるものと、変えることが困難なものとがあります。対人関係で言えば、簡単に変えられる(変わってしまう)部分もあれば、容易には変えられない部分もあります。信用を失くすことはスグですが、信用を築くことは容易ではないですよね。まあ、一時的に人を信用させることが得意な人もいますけれども、化けの皮がはがれるのも早いですよね。このように考えると、人は環境との折り合いを付けながら生きなければならないものだと改めて思います。ワタクシのような隠棲の身の者が、“環境との折り合いを付けながら生きなければ”などと書くことは、遠慮しなければならないことではあるのですが、話の流れということで容赦してください、隠棲することによって客観視できることもありますので。

そこで、“折り合い”というのが「伏すること久しき」に通じることで、如何に伏すかということが“折り合い”の付け方なのだと思うのです。“折り合い“の付け方次第で、高く飛ぶこと、すなわち大きな収穫を得ることができるということでしょう。“折り合い”ということについては、今回の記事の出典である『菜根譚』にもイロイロと載っていますし、『論語』にも細かく書かれています。これを抽象的に言い表せば、仁とか徳とかになるのでしょうが、もう少し具体的にまとめた言葉はないものかと思い調べてみると、絶好の言葉がありました。ということで、これを次回の記事のネタにさせていただきます。このブログの場合、次回が何時になるのか不明確なのですが、遅くとも今月中にはUPいたしますので、また読みに来て下さい。


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2007年5月17日

天地和気、人心喜神‐菜根譚より

『菜根譚』‐前集6より

天地に一日も和気無かるべからず、人心に一日も喜神無かるべからざる。
テンチにイチニチもワキナかるべからず、ジンシンにイチニチもキシンナかるべかざる。


天地不可一日無和気、人心不可一日無喜神。

【意訳】天地の間には一日であっても和める陽気が無くてはならなず、(これと同じように)ひとの心にだって一日でも喜び和む気持ちが無くてはならない。

5月18日が“国際善意デー”(参照:ウィキペディア)に制定されていることにちなんで、『菜根譚(さいこんたん)』の前集に収められている一節を選んでみました。この言葉の意味するところは、気象が移り変る中にも快い晴れの日があるように、人の心の中にも快い喜び和む気持ちは欠かせない、ということでしょう。天気の移り変わりよりも早くて不安定なのが人の心でもあるのですが、気象と人の心の変化を対比させているところが、この一節の面白いところだと思います。

天気は移り変っても、心地よい陽気が再びめぐって来るものですが、人の心は不安定でありながらも悪い状態が長く続くこともあります。「待てば海路の日和あり」という成句もありますが、辛抱できない弱さもあります。気象には、晴れの日も雨の日も時には嵐の日もありますが、やがて晴れの日が戻ってきます。天気の変化には循環するというサイクルがあって、それでバランスが取れているわけですが、バランスを忘れてしまいがちなのは人の心です。

心のバランスを崩してしまうと、人間関係というバランスにも影響します。それが絡み合ってスパイラル構造になると、なかなか抜け出せなくなってしまいます。自分では周囲に気を配っているように思っていても、周りから見れば心を開いているようには見えないのですね。そこに欠けているものに、陽気があるのではないかと思います。そこで、自分も周囲も陽気になれる話題を見つけるのも一策ですが、やはり効果的なのは行動ではないでしょうか。大切な人に接するように、大切に思い合いたい人と共に心が和みあえる行動が陽気に結び付くのだと思います。そして、善意は、そういう行いと似ているのではないでしょうか。喜び和む気持ちを分かち合えることを考え、それを試してみる。やがてそこに陽気というものが生まれるのでしょう。

人の心情が気象と似ているようで違うところは、悪い気から悪い気が再生され、良い気から良い気が生み出されるという、天気とは違ったサイクルを生み出せることです。相手を思い遣るという善意があれば、良い気が生み出されるのです。陰気も陽気も、一つひとつの心の内側から生み出されるものだと思います。

余談ですが、善意と聞くと、寄付ということも連想します。寄付という「善行」は素晴らしいことだと思うのですが、中には寄付するという行為の裏側で悪どい儲け方をしていて、“善意”なのか“贖罪(ショクザイ)”なのか区別が付かない場合もあって、スッキリしないものを感じることもありますね。また、「私はカクカクシカジカの寄付をしています」と公言してはばからない人もいます。善行というものは、人に気付かれないようにした方がカッコイイですし、良い気を呼び込むという点でも効果があるのですが、「カクカクシカジカの寄付」ができていない者が言っても意味が無いですかね。カネが無い者なりの善意とは、次元の違う話なんでしょうから、無い者なりに考えてみます。

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2007年5月6日

論語の三省は薬石に通ず‐菜根譚より

『菜根譚』‐前集147より

己を反りみる者は、事に触れて皆薬石と成る。
オノレをカエりみるモノは、コトにフれてミナヤクセキとナる。


反己者、触事皆成薬石。


論語の学而編第一の四に、「曾子曰、吾日三省吾身」という言葉があります。この読み下し文(訳)には「曾子曰く、吾れ日に三たび吾が身を省(かえりみ)る」というものと、「曾子曰く、吾日に三つ吾が身を省みる」、「曾子曰く、吾れ日に吾身を三省す」とするものがあります。私自身は、最後の「吾身を三省す」という読みのほうがシックリと来るのですが、これについては『論語☆ノート‐哲義繙無碌2号館☆』で、いずれ書くことに致します。

で、これに通じるのが『菜根譚(さいこんたん)』に記されている、冒頭の言葉だと思うのです。この「己を反りみる者は、事に触れて皆薬石と成る」という言葉の後には、「人を尤(とが)むる者は、念を動かせば即(すなわ)ち是(こ)れ戈矛(カボウ)なり」という言葉が続きます。

事に当たって、自らの言動や行いを振り返る人は、あらゆる物事が自分自身にとっての薬や鍼灸の針となるが、反省すべきことを他の人の責任に結び付けようとする人は、ことごとくに心や思いをそれに結び付けようとするばかりで、それが自分自身を傷つける矛(ほこ:槍)のようになってしまう・・・・・・という意味ですね。

人には自己防衛本能というものもあるようですから、自分自身の立場を守ることに執着するのも致し方の無いことではあります。しかし、こればかりでは相互理解というものが成り立たないわけで、結局は自分自身を窮地に追い遣ることになるんですよね。

事に臨んで周囲に対する目配りをしないから、結果が見えてきたところで都合の良い自己分析をしてしまい、非は我にあらずという態度に出てしまうのでしょうね。自身の言行をリアルタイムにチェックするというスタンスが大切なのだと思いました。そのチェックするべき基準というものも大切ですけどね。そして、基準になるものを一言で表現すれば、中国思想の「中庸」という言葉に集約されるのでしょうが、これがまた奥の深いものなのですね。このブログを書く目的の一つが、「中庸」を知ることにあるのですが、愚昧な人間であるワタクシには荷が重い話です。遅々としてはいても、気持ちはブレないようにしたいと思います。


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2007年4月16日

人間をつくる‐能ある鷹は己を磨く‐『易経』より☆

『易経』‐乾(乾為天)初九

潜龍用うる勿れ 。
センリョウ モチうるナカれ


潜龍勿用。


乾(乾為天)とは、易の六十四卦の最初に位置するもので、六つの陰陽[爻(コウ)]がすべて陽で表されています。その一番下(初爻‐ショコウ)の意味する爻辞(コウジ)が、この記事の冒頭に書いた「潜龍勿用」です。機が熟していない状況で、自分の思いや考えを通そうとしても、良い結果を得ることはできないという意味ですかね。

易占いの解説本では、上司や目上との争いごとを慎むとか、部下や目下の者からの裏切り反逆とかに解釈していますが、占いをテーマとする記事ではないので、これを云々することは差し控えておきます。この爻が示すところは、龍が地下あるいは水中に潜んでいる状態で、天に昇る機運が到来してはいないということです。然るべき機運がやってくれば自ずと事態が展開することを、急いで進めようとすることで無理が生じてしまうことに対する戒めの言葉です。

自らの役目も果たせずにいながら、上司や組織を批判する人もいれば、職業や役職をカン違いして、己が楽をすることに躍起になる人もいますね。前者は淘汰されますが、後者は違って狡猾で用意周到ですから、したたかに生き残るんですよね。こういう人に対しても、「潜龍用うる勿れ」というスタンスでいなければならないのかという思いも出てきますが、結論的に言えば遣り過ごしてしまうのが最善なのです。こういう人に対抗したり反発したりしても相手を増長させるばかりで、それとは逆にこちらのエネルギーを消耗させることになります。要は相手の波長に合わせることになり、それが自分のリズムを崩してしまうことになるんですね。

『易経』の本質は、天・地・人のバランス・・・・・・天の時(運気、タイミング)・地の利(環境、助力)・人(器量)の調和を観ることですが、「潜龍勿用」 には「天・地・人」の調和が取れていないということを意味があるのです。では、調和が取れるようにするには、何をどうすれば良いのか?・・・・・・ということになりますね。「天・地・人」の中で自己を意味するのは「人」ですから、これを高めることに意識を向けることが、その答えになるのだと思います。「人」すなわち人間の器量や品格を高めれば、それに見合った「地」が開け、「天」が意味するところの時が巡って来るのでしょうね。

そこで、“人間の器量や品格を高める”という方法ですが、『論語』にヒントが隠されているのですね。「潜龍勿用」は『易経』の冒頭に位置する文言ですが、これが『論語』の冒頭である学而編の「子曰、学而時習之・・・・・・」という一節にリンクしているのだと考えるのです。学びのスタンス=己を生かすスタンスという意味で、それぞれの書物のトップに書かれている・・・・・・と考えるのは、飛躍しすぎでしょうか。『論語』も『易経』も、ともに儒教の中核に位置するものですから、そこに必然性が有るという気が私にはするのです。

最後に、お知らせです。かねてより記事に書いておりました『論語』 のブログを始めました。タイトルは、『論語ノート‐哲義繙無碌2号館☆』です。『論語』の原文に、読み下し文と現代語訳(私家版)、それと雑記を中心に構成しています。当面は、週刊から旬刊での更新を予定していますが、徐々にペースアップできればと思っております。皆様のご訪問を、心よりお待ち致しております。

《感謝》


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2007年4月2日

特立して独行す☆生き様を見せる!

『文章軌範』韓文公「與于襄陽書」

特立して独行す 。

特立而独行。

世の中の風潮や周りの雰囲気に流されず、自己の考えと確信を持って行動する。というのが、この文章の訳として適切ではないかと思います。

これを平たく言うと、 “生き様を見せろ”ってことではないでしょうか。「特立して独行す」という言葉は、一見すると自分勝手な独立独歩の異端者を意味する言葉のようにも思えます。しかし、自分勝手な独立独歩では孤立してしまいますから、特立ではなくなりますね。だとすると、実際には観察眼と見識の大切さと、その上に立った生き方をメッセージとする言葉だと思うのです。

数年前に「オンリーワン」という言葉が流行りましたが、「世界にひとつだけの花」として生きることの素晴らしさを歌ったものでした。しかし、実際には「オンリーワン」な生き方は理想であって、結果的には「エブリーワン」の中での気休め的な、個人的な世界に限定されたものだったように感じます。個人的空間と社会的空間とに生きる人間の、心の拠りどころのようなものを、恋人や友人や家族との関係の中に「オンリーワン」というカタチで具現化することを賞賛することだったと思います。

では、社会的空間における「オンリーワン」の在り方とは、どういうものなのでしょう。本当の「オンリーワン」を目指すためには、周囲の個々人が持つ個性や考えを知ることが大切なのではないでしょうか。最低限の常識やルールは別として、相手との個の違いを認めるところに、自己を特立させる場所が生まれると思うのです。多くの個を否定して、画一化され序列化された中では忘れられがちなことですが、個を認知するところにこそ特立があり、独行という「オンリーワン」の生き方が生まれるのだと思います。

私は会社という組織を離れて、隠遁的な偏業生活に身を置く者ですから、「オンリーワン」ではなくて単なる「アウトサイダー」であり、見る人によっては「敗北者」であるわけですね。こういった立場から申し上げるのは無礼ではあるのですが、「オンリーワン」とは組織に在ってこそ光るもの、意味のあるものだと考えます。組織の中に在って、そこからはみ出すことなく、しかも存在感を放つというのは、相手を認め己を知るところに始まると思うのです。「生き様」という「オンリーワン」な存在感も、そこに根ざすのではないでしょうか。

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前回の記事から3週間以上経過してしまい、「週に1~2回は更新いたします」と書いたことがウソになってしまいました。本当に、ごめんなさい。 希望的観測や、憶測は書かずに、努力いたします。

《深謝》

2007年3月11日

我が心は鑒(かがみ)に匪(あら)ず。我が心は石にあらず☆

『詩経』国風・邶風-柏舟

我が心は鑒(かがみ)に匪(あら)ず、
以って茹(はか)るべからず。

我心匪鑒、
不可以茹。


「鑒」は鑑の異体字で、かがみ(鑑・鏡)とか、手本という意味を持ちます。「匪」は非に通じて「あら‐ず」という意味です。「茹」には「ゆ‐でる」という意味の以外に、「く‐らう」・「ふく‐む」などの意味から転じて、「はか‐る(推測する)」という意味も持っています。

これを訳すと・・・・・・
 「
私の心は鑑(かがみ)ではないので、(鑑に映すように)人の心を推し量ることなどできません。」・・・・・・となります。この言葉を言い換えると、人の思いというものは、鏡に映すように読み取ることができないものですから、勝手に決め付けてはならない、ということも言えるでしょう。物事を決め付けて言葉にすることは誰にもありがちなことですし、それが相手を傷つけることも少なくありません。気を付けたいですね。

この句には・・・・・・
亦有兄弟、不可以據。
薄言往愬、逢彼之怒。
「亦(また)兄弟有るも、以って據(よ)るべからず。薄言に往きて愬ぐるとも、彼の怒に逢う。」という句が続きます。これは、「兄弟はあっても、頼ることもできません。わずかなことを言うために行って話をしても、彼の怒らせることになります」という意味のようです。

さらに、この後に続く句は、「我心匪石、不可転也」・・・・・・「我が心は石にあらざれば、転がすことなかれや」というもので、この句から『我が心は石にあらず』というタイトルを付けた小説も書かれました。元立命館大学の先生で、京大生時代に吉川幸次郎先生に師事された高橋和巳氏の作品です。この作品を読む前に、この記字で引用した『詩経』の「柏舟」を知っていれば、高橋和巳氏に対する理解も深まっていたと思います。

『詩経』は、中国最古の詩を集めたものですが、この詩に書かれている、コミュニケーションの難しさと独り善がりになりやすいという人間のエゴの部分は、今も昔も変わらないようですね。また、古くから伝わる作品には、格式ばった雰囲気が漂っていますが、中味は今と変わらないということでもあると思うのです。

さて、ここで新しいブログの予告をさせて頂きます。この『哲義繙無碌(てつぎはんぶろぐ)☆Tetugi-han-blog☆』は、「先哲の義訓を繙(ひもと)く、碌で無しのブログ☆」としてスタートしたのですが、このブログの記事の中から『論語』だけを抜き出して、新たなブログを作ろうと思っております。そのブログで、『論語』の全訳を試みるつもりです。なぜそんな気になったのかという動機については、そちらで書きます。しかし、それで当ブログの更新頻度が更に低下してしまうのは不本意なので、気合を入れて書いてまいります。せめて、週に1~2回は更新いたしますので、週に一度はご訪問してくだされば嬉しいです。

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2007年2月22日

論語を読む:徳☆愛国心、品格のベースとなる要素の一つ

論語・里仁編第4

子曰く、徳は孤ならず、必ず隣有り。
「子曰
、徳不孤、必有隣。」

前回に引き続いて、『論語』から引用します。今回取上げた、「子曰、徳不孤、必有隣」という一節は、里仁編第4の最後のほうに書かれているものです。「子曰」という部分を除けば、「徳不孤、必有隣」という具合に、わずか六文字で言い表されたシンプルな言葉です。これを「徳は孤ならず、必ず隣有り」と読み下し、「徳とは、孤立した孤独なものでは無く、それを認めてくれる人が、きっと周囲にあらわれる」というように解釈されています。

私はこの解釈を読んで、「何とも独り善がりな心境を投影した解釈なんだろう」と感じてしまいました。この解釈を、ホントに学者さんらしいものだと思ってしまったのです。学問というものには、確かに孤独な部分があり、自身の研究や考え方を世間に認めてもらうまでに相当な苦労もあるでしょう。仕事においても、同様のケースは幾らでもあると思います。しかし、「徳」というものは、「学問であって学問にあらず」というべきものの一つです。

「徳」は、「仁」や「義」・「礼」・「信」などと共に、いわゆる「道徳」の根幹をなすものです。しかし、「徳」は学ぶだけのものではなく、普段の生活の中で取り組まねばならない実践学です。「徳」は人と人との関係を円滑にするための作法でありルールですから、人の中にあってこそ、検証もできれば実践もできるものだと思うのです。「徳不孤」という言葉は、それを説く言葉でしょう。

「孤」も「独」も、「一人きり」という意味を持つ漢字ですが、少し違う意味もあります。「独」とは、外部との接触を絶った(絶たれた)状態を示す漢字です。もう片方の「孤」という漢字は、内部とのつながりが絶たれた状態を表しているのです。血のつながった者がいない子供を、孤児と書くように、身を寄せるハズの身内のものがいない状態を「孤」という漢字で表しているのです。助けてくれる者が内部にいない場合に、孤軍奮闘しなくてはならないのですね。

必有隣」の「隣」は、「連なったもの」を表現する場合に使われる漢字です。隣人とは、自分のそばにつながっている人という意味ですね。ですから、「必有隣」は「理解をしてくれる人が必ず有る」ということではなく、「つながりというものが必要不可欠なもの、有するべきもの(持たなくてはならないもの)なのですよ」と解釈するほうが、意味が通じると思うのです。ここでは、「孤」と「隣」とが対比をなしていることは、今さら言うまでも無いことですが、対(つい:対比)の妙を如何に読み解くかで、解釈が異なるのですね。

まとめると、「徳というものは、身内のなかに学べるものであって、それを絶った孤高のものではなく、人とのつながりというものがあって、はじめて学べるものなのですよ」というように、孔子がおっしゃられたのでしょう。聖書でいえば、「人はパンのみに生きるにあらず」に通じるのでしょう。

近頃は、愛国心とか品格という言葉が流行っていますが、この言葉の源流にあるものが「徳」だと思うのです。しかし、近頃のエライ人は「徳」というものを、「得」や「特」とカン違いされているように思います。欲得や特権意識が横行して、「徳」を省みることのない人たちに、愛国心とか品格という言葉は、どう映っているのでしょうね。「美しい国」を何度聞かされても、伝わっては来ない・・・・・・というのは、私だけでは無いように想うのですが。。。つながっているのは私たちなのですが、目を向けてはもらえないのでしょうか。

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2007年2月9日

論語を読む:学ぶことと習うこと(後編)

論語・学而編第1

人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや。
「人不知而不
、不亦君子乎。」

論語の学而編第一の冒頭、「子曰、学而時習之、不亦説乎。」で始まる一節の最後に来るのが、この言葉「人不知而不慍、不亦君子乎。」です。この言葉の意味を解くためのキーワードになる漢字は、何といっても「」でしょう。」は常用漢字には含まれていませんが、訓読みとしては「る(いか-る)」る(いきどお-る)」、慍む(うら-む)」などがあります。る(いか-る)」は“怒る”に、る(いきどお-る)」は“憤る”に、そして慍む(うら-む)」は“怨む・恨む”に置き換えて表記しています。

」という漢字を使った熟語には・・・・・・
慍色・慍容:怒りを含んだ顔つき。
慍倫:心にわだかまりがあって、上手く表現できない様子。
慍見:むっと怒った様子で人に会うこと。
慍怒:憤る。腹を立てる。
・・・・・・などがあります。これらの熟語から類推すると、腹立たしい感情を抑えつつも、顔色に出てしまうようなものを
」という漢字で表しているように思います。もうすこし砕けた表現に言い換えると、ふてくされた様子とか、機嫌を損ねているような状態でしょうか。怒りをストレートに表すのを“陽”とすれば、“陰”は回りくどく表しますから、言葉に出さずに目で訴えるような表現の仕方でしょう。何だか、相手の不快感を持続させるような表現の仕方ですし、これでは互いの妥協点が見つからずに、近寄り難い雰囲気になりますね。このように考えると、「不慍」は「ふて腐れず」という感じに読み解くのが妥当ではないでしょうか。

自分の考えを他人に理解してもらえないからといって、そこでふて腐れていては事態は打開しませんからね。また、相手との接点を自ら閉ざしてしまっては、成長というものがありません。互いの考えを突き合わせること無しに、解決点を見出すことは不可能ですよね。まあ、それができずに武力抗争や戦争が繰り返されてきたのですから、容易なことではことではないのですが、自らが謙虚な姿勢でいれば、大概のことは打開できるものですよ・・・というように解釈したいと思います。

そして、論語には、「不亦君子乎。」という言葉(フレーズ)が頻繁にでてきます。これには、「君子だね」とか「君子ではないか」というような訳文が、多くの本に付けられています。しかし、これを孔子の言葉として読むと、如何にも自慢げな物言いに感じ取れてしまうのです。孔子とて、自らを完全無欠な人間とは考えていなかったし、人としての「あるべき姿」を考える求道者でもあったのですから、こういった訳文が適切だとは思えないのです。そういうことで、「君子たるべきことではないか」という表現に、私は捉えています。

ということで、私が考える日本語訳は、

人(と互いの思いを)知らずして、(ふて腐れたように)慍(うら)みず、また君子たらずや。

人との仲というものは相互理解が肝要であり、ふて腐れたように接するよりも謙虚に振舞うことのほうが、君子たるべき道を歩むことではないか

・・・・・・と、考えるのです。

論語の導入部にあたる「学而編第一の冒頭で、学びとは何なのか?・・・・・・ということについて書かれたもの(であるはず)ですから、「論語」を読むための心構えが述べられているのでしょう。そして、この言葉は、他の先哲が遺した書物に接する場合のスタンスのありかたにも通じるものでしょう。

私は、記事を公開で書くことによって、愚昧である自らが少しでも学ぶことができればという想いで、このブログを始めました。そして、自らを戒めて、学ぶことに対する謙虚さを肝に銘じる意味もありまして、この一節を最初の記事に選んだ次第です。しかし、浅学の小人ですから、間違った内容を綴って、その正体を露見させることもしばしばだと思います。その時は、心優しいフォローをお願い申し上げます。

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2007年2月5日

論語を読む:学ぶことと習うこと(中編)

論語・学而編第1

朋有り、遠方より来る、また楽しからずや。
有朋自遠訪来、不亦楽乎。

前回の記事に書いた「子曰、学而時習之、不亦説乎。」に続くこの言葉には、どのような意味が含まれているのかを考えてみました。

「学んだことを時(事あるごと)にこれを(重ねて)習えば、また(更に理解できて)よろこばしいことではないか。」というスタンスで学究を行えば・・・

「学究することにインスパイア(感応)しあえる朋友ができ、遠方にも交友関係が広まって訪れたり来たりという行き来がうまれて、これもまた楽しいことではないか」

・・・というように、説いているのではないでしょうか。知識の刷り込みだけでは、お互いが競い合うだけという、いまでいう受験戦争(使い古された言葉ですね)のような状態になって、朋友といえるものなど出来ようがありません。互いが同様の、あるいは類似関連したことを学び合う中に相互の影響関係が生まれ、それぞれが
硯学に励むことができるのだと思うのです。

昔の中国で科挙という官吏の選抜試験が行われていたというのは有名な話ですが、それが政治腐敗の温床になったことも度々です。広範な知識を、より多くアタマに刷り込んでいる者を選抜するというだけでは、賢明な政(まつりごと)を行うことにならなかったというのは、歴史によって繰り返し証明されていることです。

ところが、今の日本で行われているのは、入進学から就職試験に至るまで、記憶力を競う選抜試験が横行しています。さらに、学習するという意味から外れて、選抜試験に受かるためのテクニックを磨く教育が主流になっています。その結果として、個々が持つ才能や適性を、芽の段階で刈り取ってしまう、教育という名称の強育(強制教育)や矯育(矯制教育)が行われているのです。このような状況では、型からハミ出す人間を振り分けることはできても、型破りな人物ほ輩出することはできないでしょう。教育再生などと声高に叫んでも、この根本的な間違いが正されない限り、本当の改革にはならないと思います。

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2007年2月3日

論語を読む:学ぶことと習うこと(前編)

論語・学而編第1

子曰く、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。
 「子曰、学而時習之、不亦説乎。」

この言葉は、『論語』の学而編の冒頭に載っているものです。ここにある「時」・「習」・「説」という三つの文字が、とても気になるのです。『論語』というものは、一般の人に向けて語られたものではなく、孔子が弟子に対して語ったことを記録編纂した書物といわれています。弟子として孔子から入門を許された者であれば、相応の能力を有する人物であったはずですから、一度聞けば忘れることは無いものと思えます。だとすれば、「習」の意味を単純に、「ならう」とか「復習する」というように解釈することに疑問を持つわけです。

「習」という字は、鳥が繰り返し羽根を動かすことで飛び方を覚えるというところから成り立っているようです。そこから類推すると、脳に働きかけて記憶することではなく、繰り返すことで覚えるという意味を持つのでしょう。単純に考えれば繰り返し復習するということでしょうが、有能な弟子達に対する孔子の教えだとすると、記憶するという意味ではなさそうです。

次に「時」という字ですが、「時間(time)」とか「時々(some time)」というというのが主な意味でしょう。very timeということになると、「常・常時」という表記になります。また、some timeとevery timeの間い、any timeという言葉が存在し、訳すると「何時でも・適宜」になります。この中で、先ほどの「習」と組み合わせが良いものを選ぶとすれば、「何時でも・適宜(any time)」が最もしっくりとするように思います。適宜というのは、「程よいタイミングで」とか、「折にふれて」・・・というように考えれば良いでしょう。では、どういうタイミングが「習」と結びつくのでしょう。

「程よいタイミングで」とか「折にふれて」というのは、時間のひとコマであり、普段の生活の中の一場面と考えます。普段の生活の場面場面で覚えたことを思い出し、反芻し、考えて、そして理解して身に付けなさい・・・というのが、「習」の意味するものではなかったのかと思うのです。学んだことを活用する場は、意識さえしていれば見つかるものです。そのスタンスの先に、理解や気付きというものがあるのでしょう。

では、「説」というのは、どのように「よろこばし」いのでしょう。この漢字は、「言」と「兌」から成り立つ会意形声文字です。「言」は「ことば」とか「いう」、ハッキリと発音するという意味です。一方の「兌」には「抜け出る」や、「解き放つ」という意味があるようです。よって、「説」には、「心のしこりが解けてよろこぶ」という意味があるのですね。今まで見えなかったものが、モヤモヤが解けて確認できるようになった時のよろこびというようなものですね。「説乎(よろこばしからずや」というのは、「?」が「!(そうか!)」に変わることで味わえる「よろこばし」さなんだと思います。

「学習」するということは、覚えるとか記憶するという次元のものとは少し違うのですね。日本では、頭の中に刷り込むように、覚えさせたり暗記させたりすることが教育と考えられているようです。応用力や思考力を付けさせる教育もされてはいますが、同じ次元の中でのテクニックを説いているだけだと思うのです。「学ぶ」ということの延長線上には、更なる疑問点の発見があります。そして、その疑問を解消するために、それまでに覚えたことを基に思考したり応用したりして思索し、仮説を立てて検証するという行為を繰り返すことで、一段高い次元に到達するワケです。

ところが現在の日本の教育では、より多くの事柄をアタマの中にプリンティングできているか否かを評価の基準にしています。ですから、「成績」が良くても「賢さ」の足りない人物が排出されてしまうのでしょう。そして、低次元レベルでの能力に優れているものが試験をパスして、低次元の教育を再創出したり、政治や行政に携わったり、あるいは知識人・識者として低次元の情報をマス媒体から発信するというような悪循環を生み出しているのです。

「成績」の良さを能力の高さとカン違いして、「賢さ」を知らないでいる者には、「五常(仁・義・礼・智・信)」の本質や「五情(喜・楽・慾・怒・哀)」の機微など理解できないものです。ですから、「五徳(温・良・恭・倹・譲)」を嘲笑うかのように忘却し、「五濁(劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁)」にまみれるどころかドップリと漬かっていることにも気付かない社会が形成されているのです。釈迦や孔子、キリストなどの聖賢は、このような事態を予測して、さまざまなメッセージを残しているのでしょう。

「学びて時にこれを習う。またよろこばしからずや」という言葉に表される「よろこび」とは、ある意味自転車に乗ることができるようになった時とか、泳ぎを覚えた時の喜びのようなものではないでしょうか。いくら教わっても乗ることができずに、教わったことを意識しながら繰り返しチャレンジすることによって乗りこなせるようになるということに通じると思うのです。そして、それまでの「?」が、「!(そうか!)」に変わることというのは、単に理解できるようになったというだけではないでしょう。その人の頭脳の中に、新たな思考回路が構築されたということでもあって、そこから更なる思考が展開され、新たな可能性が開けるということにもなるんじゃないかと考えます。

ということで、私が思う日本語訳は・・・

子曰く、学んだことを時(事あるごと)にこれを(重ねて)習えば、また(更に理解できて)よろこばしいことではないか。

・・・となります。

このように考えると、論語の冒頭にこの言葉が書かれていることの必然性のようなものを感じます。論語とは、単に読んで覚えるものではなく、自らの思考回路を構築するためのツールである・・・というメッセージに思えてきます。

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2007年1月26日

無碌(ろくでもない)小人のブログを始めます☆

このブログは、わたくし遇宮流山人(googlesanjin)が、11番目に運営するサイトです。今までの10個のサイトの内訳は、ホームページが2つ、ブログサイトが8つで、そのすべてが事業の販促として運営しているものです。ですから、このブログが、初めてのプライベートっぽいサイトということになります。

“プライベートっぽい”と申しましても、このブログを実名で運営する訳ではなく、私の仕事の延長線上に位置するものとしつつ、生業とは切り離した形をとって管理するブログ、という意味合いです。また、事業といっても、生活の糧を得るために営んでいる偏業です。ただ、偏業でありながら顧客対象は多岐に亘るものであるため、それに合わせた内容で多くのブログを運営している次第です。しかし、対象の広さとは関係なく、現在も未来においても、大きな収入を得ることも無いでしょうし、その心算もありませんが、人との出会いを増やして、お役に立てればと願っております。

このブログでは、先哲によって残された書物をひもとき、自身の想いや考えを交えて書きとめて参ります。記事のソースとなるのは、主に東洋思想に関係するものですが、私は学者ではなく在野の小器ですから、手前勝手な解釈もいたします。私自身の考えや思いを書き綴ったものですから、愚鈍で蒙昧な記事の羅列となるでしょうし、記事を書き溜めるうちに、その浅学を曝すことにもなるでしょう。見識の備わった御仁には不快かもしれませんが、そういう場合は何卒ご看過(スルー)していただくか、優しくご指導下さいませ。

最後に、このブログの記事は暇な時に書くものですから、更新は不定期となります。それでも訪問して下さる方は、駄文にお付き合い下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。

【感謝】