哲義繙無碌(てつぎはんブログ)とは、先哲の義訓を繙(ひもと)き記録したものです! 40代を前にして隠棲し、小商いと執筆生活に勤(いそ)しむ愚昧なる小隠が、先哲の教えを中心に、愚拙に解釈する趣味的無碌=ブログです☆

2007年2月3日

論語を読む:学ぶことと習うこと(前編)

論語・学而編第1

子曰く、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。
 「子曰、学而時習之、不亦説乎。」

この言葉は、『論語』の学而編の冒頭に載っているものです。ここにある「時」・「習」・「説」という三つの文字が、とても気になるのです。『論語』というものは、一般の人に向けて語られたものではなく、孔子が弟子に対して語ったことを記録編纂した書物といわれています。弟子として孔子から入門を許された者であれば、相応の能力を有する人物であったはずですから、一度聞けば忘れることは無いものと思えます。だとすれば、「習」の意味を単純に、「ならう」とか「復習する」というように解釈することに疑問を持つわけです。

「習」という字は、鳥が繰り返し羽根を動かすことで飛び方を覚えるというところから成り立っているようです。そこから類推すると、脳に働きかけて記憶することではなく、繰り返すことで覚えるという意味を持つのでしょう。単純に考えれば繰り返し復習するということでしょうが、有能な弟子達に対する孔子の教えだとすると、記憶するという意味ではなさそうです。

次に「時」という字ですが、「時間(time)」とか「時々(some time)」というというのが主な意味でしょう。very timeということになると、「常・常時」という表記になります。また、some timeとevery timeの間い、any timeという言葉が存在し、訳すると「何時でも・適宜」になります。この中で、先ほどの「習」と組み合わせが良いものを選ぶとすれば、「何時でも・適宜(any time)」が最もしっくりとするように思います。適宜というのは、「程よいタイミングで」とか、「折にふれて」・・・というように考えれば良いでしょう。では、どういうタイミングが「習」と結びつくのでしょう。

「程よいタイミングで」とか「折にふれて」というのは、時間のひとコマであり、普段の生活の中の一場面と考えます。普段の生活の場面場面で覚えたことを思い出し、反芻し、考えて、そして理解して身に付けなさい・・・というのが、「習」の意味するものではなかったのかと思うのです。学んだことを活用する場は、意識さえしていれば見つかるものです。そのスタンスの先に、理解や気付きというものがあるのでしょう。

では、「説」というのは、どのように「よろこばし」いのでしょう。この漢字は、「言」と「兌」から成り立つ会意形声文字です。「言」は「ことば」とか「いう」、ハッキリと発音するという意味です。一方の「兌」には「抜け出る」や、「解き放つ」という意味があるようです。よって、「説」には、「心のしこりが解けてよろこぶ」という意味があるのですね。今まで見えなかったものが、モヤモヤが解けて確認できるようになった時のよろこびというようなものですね。「説乎(よろこばしからずや」というのは、「?」が「!(そうか!)」に変わることで味わえる「よろこばし」さなんだと思います。

「学習」するということは、覚えるとか記憶するという次元のものとは少し違うのですね。日本では、頭の中に刷り込むように、覚えさせたり暗記させたりすることが教育と考えられているようです。応用力や思考力を付けさせる教育もされてはいますが、同じ次元の中でのテクニックを説いているだけだと思うのです。「学ぶ」ということの延長線上には、更なる疑問点の発見があります。そして、その疑問を解消するために、それまでに覚えたことを基に思考したり応用したりして思索し、仮説を立てて検証するという行為を繰り返すことで、一段高い次元に到達するワケです。

ところが現在の日本の教育では、より多くの事柄をアタマの中にプリンティングできているか否かを評価の基準にしています。ですから、「成績」が良くても「賢さ」の足りない人物が排出されてしまうのでしょう。そして、低次元レベルでの能力に優れているものが試験をパスして、低次元の教育を再創出したり、政治や行政に携わったり、あるいは知識人・識者として低次元の情報をマス媒体から発信するというような悪循環を生み出しているのです。

「成績」の良さを能力の高さとカン違いして、「賢さ」を知らないでいる者には、「五常(仁・義・礼・智・信)」の本質や「五情(喜・楽・慾・怒・哀)」の機微など理解できないものです。ですから、「五徳(温・良・恭・倹・譲)」を嘲笑うかのように忘却し、「五濁(劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁)」にまみれるどころかドップリと漬かっていることにも気付かない社会が形成されているのです。釈迦や孔子、キリストなどの聖賢は、このような事態を予測して、さまざまなメッセージを残しているのでしょう。

「学びて時にこれを習う。またよろこばしからずや」という言葉に表される「よろこび」とは、ある意味自転車に乗ることができるようになった時とか、泳ぎを覚えた時の喜びのようなものではないでしょうか。いくら教わっても乗ることができずに、教わったことを意識しながら繰り返しチャレンジすることによって乗りこなせるようになるということに通じると思うのです。そして、それまでの「?」が、「!(そうか!)」に変わることというのは、単に理解できるようになったというだけではないでしょう。その人の頭脳の中に、新たな思考回路が構築されたということでもあって、そこから更なる思考が展開され、新たな可能性が開けるということにもなるんじゃないかと考えます。

ということで、私が思う日本語訳は・・・

子曰く、学んだことを時(事あるごと)にこれを(重ねて)習えば、また(更に理解できて)よろこばしいことではないか。

・・・となります。

このように考えると、論語の冒頭にこの言葉が書かれていることの必然性のようなものを感じます。論語とは、単に読んで覚えるものではなく、自らの思考回路を構築するためのツールである・・・というメッセージに思えてきます。

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