哲義繙無碌(てつぎはんブログ)とは、先哲の義訓を繙(ひもと)き記録したものです! 40代を前にして隠棲し、小商いと執筆生活に勤(いそ)しむ愚昧なる小隠が、先哲の教えを中心に、愚拙に解釈する趣味的無碌=ブログです☆

2007年2月5日

論語を読む:学ぶことと習うこと(中編)

論語・学而編第1

朋有り、遠方より来る、また楽しからずや。
有朋自遠訪来、不亦楽乎。

前回の記事に書いた「子曰、学而時習之、不亦説乎。」に続くこの言葉には、どのような意味が含まれているのかを考えてみました。

「学んだことを時(事あるごと)にこれを(重ねて)習えば、また(更に理解できて)よろこばしいことではないか。」というスタンスで学究を行えば・・・

「学究することにインスパイア(感応)しあえる朋友ができ、遠方にも交友関係が広まって訪れたり来たりという行き来がうまれて、これもまた楽しいことではないか」

・・・というように、説いているのではないでしょうか。知識の刷り込みだけでは、お互いが競い合うだけという、いまでいう受験戦争(使い古された言葉ですね)のような状態になって、朋友といえるものなど出来ようがありません。互いが同様の、あるいは類似関連したことを学び合う中に相互の影響関係が生まれ、それぞれが
硯学に励むことができるのだと思うのです。

昔の中国で科挙という官吏の選抜試験が行われていたというのは有名な話ですが、それが政治腐敗の温床になったことも度々です。広範な知識を、より多くアタマに刷り込んでいる者を選抜するというだけでは、賢明な政(まつりごと)を行うことにならなかったというのは、歴史によって繰り返し証明されていることです。

ところが、今の日本で行われているのは、入進学から就職試験に至るまで、記憶力を競う選抜試験が横行しています。さらに、学習するという意味から外れて、選抜試験に受かるためのテクニックを磨く教育が主流になっています。その結果として、個々が持つ才能や適性を、芽の段階で刈り取ってしまう、教育という名称の強育(強制教育)や矯育(矯制教育)が行われているのです。このような状況では、型からハミ出す人間を振り分けることはできても、型破りな人物ほ輩出することはできないでしょう。教育再生などと声高に叫んでも、この根本的な間違いが正されない限り、本当の改革にはならないと思います。

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