古典の名言・名句集―哲義繙無碌(Tetugi-han-blog)☆

哲義繙無碌(てつぎはんブログ)とは、先哲の義訓を繙(ひもと)き記録したものです!‐30代にして隠棲と執筆生活に勤(いそ)しむ愚昧なる小隠が、中国と日本の先哲の教えを中心に、時に西洋の文献を交えて愚拙に解釈☆

2010年2月8日

良寛さんの漢詩「円通寺」:清貧たるべし

「円通寺(えんつうじ)

---●---●---●---●---

自来円通寺

円通寺に来たりて

幾度経冬春

幾度か冬春を経ん

門前千家邑

門前に千家の邑(ユウ)

更不知一人

一人をも知らずにへる

衣垢手自濯

衣の垢は自ら手で濯(あら)い

食尽出城闉(ジョウイン)

食尽きれば城闉(ジョウイン:城の外郭の門)に出ず

曾読高僧伝

曾(か)って高僧の伝を読むに

僧可可清貧
僧可は清貧なる可(べ)しと

---●---●---●---●---

【現代語訳】

円通寺(岡山県倉敷市)に来てから、
幾たびかの冬と春が過ぎた。

門前の邑(むら)には多くの家々が在るのに、
誰一人知ることなく過ぎた。

垢のついた僧衣は自らの手で洗い、
食料が尽きれば城の外門まで托鉢に歩く。

昔読んだ高僧の伝には、
僧は清貧たるべしと記す。

---●---●---●---●---

【感想】

“只管打坐(しかんたざ)”を旨とする曹洞禅を貫いていた、若き日の良寛さんの姿を想う。

子供の頃に、良寛さんと共に知ったのが一休さんだが、そちらは公案禅の僧である。

市井に出てコミュニケーションをとる一休さんが陽の禅僧とするならば、この良寛さんは陰の禅僧であるように思う。

ただ、どちらも本物の僧であることには変わりはないのだが、最近は良寛和尚のほうが気になる。

ひたすらに打ち込む。その姿に力みが無いことに魅力を感じる。


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久しぶりの投稿です。無事に生きてはおるのですが、生来の不精を抑えることができぬままです。いま少し投稿頻度を上げるべく、何らかの手を打たねばと思案をしております。

2009年5月17日

大掃除‐鳩山由紀夫新代表の就任会見より

世直しと掃除!?

先日(5月16日)、民主党の新代表となった鳩山由紀夫さんの就任会見に、「日本の大掃除を、世直しをしたい」という一節があった。そこで、「掃除」「世直し」という言葉が、政治を刷新するという意味で使われだしたはいつ頃からなのか?・・・・・・それが気になったので調べてみた。

まず「世直し」という言葉だが、《Yahoo!百科事典》によると幕末期らしい。(詳しくは《Yahoo!百科事典》の【世直し(よなおし) 】を参照)

そして、もう一方の「掃除」という言葉だが、これが結構古く南北朝時代の西暦445年頃に遡るのだ。

『後漢書』の《陳王列傳》に次のように記されている。

蕃曰、大丈夫處世,當埽除天下。

番王の曰く、大丈夫の世に処するは、当(まさ)に天下を掃除すべし

『後漢書』[陳王列傳]より。

「大丈夫と言い得る者が世にいるからには、当然天下を掃除するべきだ」ということが、ここには記されている。

さて、こういったことを鳩山新代表がご存知かどうかは私の知るところではないが、『後漢書』にはもう一つ、気になる一節が記されている。「虎を画(えが)いて成らず、反(かえ)って狗(いぬ)に類す。―虎を画いたつもりが虎にはならず、できあがった絵は狗(いぬ)を描いたかのようになってしまった」というものだ。

鳩山新代表が「大丈夫と言い得る者」で在られることを期待する!

民主党のファンというわけではなく、今の政治が新しい風を必要としているのだ。後ろには岡田さんが控えておられるから、存分に力を発揮していただきたいと思う。


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2009年5月10日

両利き(右利き+左利き)の話。

右手で円を描くと同時に、左手で方(ホウ)=四角を描くのは無理!?

右手画円、左手画方、不能両成。

右手(ゆうしゅ)に円を画(えが)き、左手(さしゅ)に方(ホウ)を画(えが)かんとせば、両(ふた)つながら成ること能(あた)わず。

『韓非子』[功名第二]より。

「左右の手を使って、まったく異なる動きをさせようとしてもむりなように、心を二つにして考えようとしては、一つのことも考えがまとまらないものだ」ということが、ここには記されています。

二つのことを同時に思い描くことは不可能でも、右手でマルを描きながら左手でシカクを描くことなら、できてしまう場合もあります。

一般的に考えれば難しいことですけれども、左右両利きの人なら意外と簡単にできるでしょうし、聞き手が片方の人であっても訓練すればできるようになります。訓練してまで、それをすることに意味があるかどうかは別の話ですが。

ちなみに、私は右手も左手も利き手で、いわゆる両利きといえるタイプです・・・・・・一応。

一応というのは、右手も左手も同じ動作を行えるワケではなく、左手を使う場合と右手を使う場合とが生活する中で区分けされているタイプです。

具体的に申し上げると、右手でペンや箸、ハサミなどを使いますが、消しゴムとかカッターナイフ、包丁は左手を使います。このように書くと器用そうにみえるかもしれませんが、ボールを投げるのは左手でバッティングは右打席のほうが向いています。つまり、ソフトボールとか野球をする場合には、どちらかというと損なタイプですね。

それ以外にも、利き手に関するネタはイロイロとあるのですが、改めて書くことにします。

話は変わって、今回の言葉の原典である『韓非子』を著した韓非(カンビ)ですが、秦の始皇帝に重用され、諸子百家の法家の祖としても有名です。また、彼の提唱する“信賞必罰”の考えは、今の法治政治の礎になっています。

正直、『韓非子』は読んでいてイラッ!・・・・・・と来る内容も少なからずあるのですが、人間の本質のウラを見事に看破している部分も多くあり、一読の価値がある典籍だと思います。


今回の記事は、にほんブログ村のトラコミュ「Ambidextrous‐左右両利き、全員集合!」にちなんで書いたものです。左右両利きの方から、トラコミュのほうにトラックバックいただければ、喜んで訪問させていただきます。

ご訪問ありがとうございます。そして、またのご訪問をお待ちいたしております。


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2009年5月9日

人生在勤‐人生は勤にあり

「勤」とは働くことか?

人生在勤。

人生は勤に在り。

『宗史』[辛棄疾伝]より。

「勤」という漢字の和訳、すなわち訓読みは「つと‐める」、「つと‐まる」で、仕事に結び付くニュアンスを持ちますが、本来の意味は「余力が無いくらいに精を出す」とか、「ものごとが行き届いているさま」を表します。

「人生在勤」「人の一生と言うのは働くことである」との和訳を見かけますが、これでは「勤」の意味する範囲が狭まってしまいます。

正しくは、「人の一生と言うのは精を出し尽くすことである」とするべきでしょう。

仕事に限らず、精一杯生きている人、そんな人の笑顔に接すると、幸せのおすそ分けをしてもらったみたいで、清々しい気分になれますね。


さて、気が付けば、前回の投稿から半年が経過しておりました。それにもかかわらず、これまた気が付けば、ランキングの上位に押し上げていただいておる。有り難いやら恥ずかしいやらで、もう少し密に更新せねばと思っております。

そして自身の不精さを戒めるために、記事を更新せずとも上位にランキングされるものよりも、更新が無ければランクアップもしないものにエントリーしました。
「精一杯」には及ばずとも、“遇宮流山人”ならぬ“ぐうたら山人”の汚名を返上したいと思っておるところです。

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2008年10月26日

三徳‐トップに立つ者の心得

三徳―人に備わるべき三つの徳とは?

三德:一曰正直,二曰剛克,三曰柔克。

三徳:一に曰く正直、二に曰く剛克、三に曰く柔克。

『書経(尚書)』[洪範]より引用。


『書経』は『尚書』とも呼ばれ、中国の政治史と政治のあり方を示した、中国最古の歴史書です。上記の文章は、政治倫理・道徳を説いた9個の指針である「九疇(キュウチュウ)」の6番目の一節で、『書経』の中の「洪範」に書かれているものです。

政治家や公務に携わる役人、あるいはリーダーとして先導する立場にある人や経営者など、中枢に位置する人物が持つべき三つの指針、それを三徳として表現している言葉だと思います。

三徳の意味するところは、(人の上に立つ者や人を導く立場にある者は、すべての民に対して)1つは正直でなければいけない。2つ目に、(正直さと志を貫くための)剛強な心を忘れてはならない。3つ目に、(剛克に偏らず、万民に対して)柔和な心を持ち続けなければならない・・・・・・というように解釈します。

「九疇(キュウチュウ)」は政治家の教科書的な存在として、長きにわたって読まれてきましたが、これを実行できた政治家は何人いたのでしょう。今では、「九疇(キュウチュウ)」すら知らない大臣もいるのでしょうね。知っていれば、あれほど厚顔無恥な振舞いもできないでしょうに。中国最古の古典ではあっても、今に通じるものは有ると思うのですが、現代の政治屋さんにとっては、無用なモノなのでしょうかね。上記の言葉は、一般ピープルにとっても意味のあるものではないかと、私なんかは考えております。

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2008年6月15日

善とは、善の在り方とは何か―積善の家には必ず余慶あり[積善余慶]

積善の家には必ず余慶あり[積善余慶]

積善之家必有餘慶。積不善之家必有餘殃。

積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。

『易経』[(周易上経)坤・文言伝]より引用。

積善余慶という言葉は、四字熟語や名言として目や耳にすることが多いのですが、これが『易経』に由来していることを、私は『易経』を読むまで知りませんでした。この言葉は、『易経』の卦を解説する[文言伝]に書かれているものです。

「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という部分を現代語に意訳すると、「善(よいこと)を積み重ねた家では、その恩恵が子孫におよび、不善(よくないこと)を積み重ねた家には、その災いが子孫にまで及ぶ。」というようになります。

「善」を善(よ)い行いと解釈すると、人に対して親切であったり助けになったりして、相手から感謝されるような行いが「善」であるように思われます。そして、ここで言う人とは家族ではなく他人様を指すもので、「家族以外の人にまでも善意を持った行いをしていれば、それが積み重なって、自分自身の子供や孫の代にいたっても幸福に恵まれる」ということを説いていることになります。だとすると、もう一方の「積不善の家には必ず余殃(よおう)有り」というのは、「人様に対して善意に欠ける行いをすれば、孫子の代にいたっても災難に遭う」と解釈されます。

これは「因果応報」とか「情けは人のためならず(回りまわって自分に還ってくる)」とかと同じような意味であり、極めて道徳的な言葉であるかのように思われます。現に、本やウェブサイトで載せられている「積善余慶」の解釈の多くが、このようなニュアンスで書かれています。書かれていることは人の行うべき道徳として正しくもあるのですが、『易経』で書かれている内容とは少し違うのです。

「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という言葉は、『易経』の「坤為地(こんいち)」という卦を解説する「文言伝」に書かれているものです。「坤為地(こんいち)」というのは全陰・純陰の卦で、全陽・純陽を表す「乾為天(けんいてん)」と対をなす卦です。(下図を参照)

(坤為地)(乾為天)。

「坤為地」というのは天地の地を意味し、天を意味する「乾為天」に従うものであり、従順で貞正な卦であると『易経』では書かれています。地(坤)の動きや働きは、天(乾)に感応するものであり、天(乾)の動きや働きに対して抗うことなく従順であることによって、地(坤)の動きや働きという作用が全(まっと)うされるということでしょう。

「文言伝」には、坤について次のように書かれています。「すべての卦(六十四卦)の中において坤は最も柔なる存在であるが、乾に感応する動きには力強さと確かさ(剛)が備わっていながら静かなものであり、その作用は四方の隅々にまで及ぶものである。(乾の)後ろに位置しすることによって、乾の動きに応じた動きができ、地上のすべての物を含有して生育することができる。坤の道は其れ順なるか。天の動きを受けるところに(坤としての)行い(作用)がある。」

上記を平たく表現すると、坤の作用というのは天の理にかなったものであって、それが淡々と行われるところに坤の柔剛さがあらわれているということでしょう。そして、この後に続くのが、冒頭に掲げた「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という言葉なのです。さらに、この言葉には、次のような文章が続きます。「臣が其の主君を殺(あや)め、子が其の父を殺めるというようなことは、一時的なことが原因で起こるのではなく、その要因となるものが次第に重なっていることに由来するのである」と。

これらの文脈から判断すると、「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という言葉の意味するところが、「家族以外の人にまでも善意を持った行いをしていれば、それが積み重なって、自分自身の子供や孫の代にいたっても幸福に恵まれ、人様に対して善意に欠ける行いをすれば、孫子の代にいたっても災難に遭う」とは少し違うように感じられます。ここでは、坤(こん)が天の理に従って作用するものであるように、主君と臣下の関係や親子や家族の関係も理にかなったものでなければならない、ということを説いているのが「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という言葉なのでしょう。

『易経』の解説では、坤は乾に付き従う存在であるとして解説しているものがあります。これを乾に対して坤が隷属的なものであるとして解釈してしまうと、「善」というものの意味を間違えることになります。坤というのは隷属的なものではなくて、乾に対して忠実に感応し作用する存在であるというのが、正しい解釈だと思います。そして、坤(地)が乾(天)の理に感応して作用するように、人と人との間においても、天の理と同様のあるべき姿によって、その関係が創り出されるというのが、「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」の意味するところなのです。そして、あるべき姿を求めなければ、「臣が其の主君を殺(あや)め、子が其の父を殺めるという」事態を招くことになるのでしょう。

だとすると、「善」とは、人様から感謝されることを意味するのではなく、あるべき姿を求めることなのですね。上司が上司らしく、主人が主人らしく、親が親らしくあってこそ、職場においても家庭においても調和というものが生まれるのです。坤(地)は乾(天)に付き従うのではなく、乾(天)こそが坤(こん)を導く存在であり、坤(地)は乾(天)に感応して動いたり働いたりするのです。ですから、家庭においても、社会においても、あるべき姿である「善」を尽くすことが余慶を生み出すことに通じるのですね。

これと同様の意味を持つのが、『論語』の学而編の第2章です。『論語』では、この章を「目上に従う心こそが、仁(人を慈しみ愛する心)の根本である」と解説しているものが多くあります。しかし、学而編の第2章は、理想的な人間関係を示すために、有子(有若)が坤の意味を説いたものであろうということが
想像できるのです。『易経』の[文言伝]に書かれた「善」とは、他人様に感謝してもらうための善行ではなく、自分自身が身を置くポジションに相応しい生きかたを説いたものだったということですね。

ところで、これを今の世の中と照らし合わせてみると、「善」というものが機能しているとは言い難いですね。世間を騒がす事件は言うまでもなく、政治や行政に携わる人々にしても経済にしても教育にしろ、積善がなされているようには感じられません。こういう場合には、どのような余殃に遭遇するのか、それを考えると恐ろしく思えてきます。

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2008年4月5日

初志貫徹ってこと―騎虎之勢(きこのいきおい)

『五代史』唐臣伝/『隋書』后妃、独孤皇后伝より
[俚語に曰く]虎に騎(の)る者は、勢い下りるを得ず:[俚語曰]騎虎者勢不得下

背に人を乗せた虎は、それを落とそうと必死になって暴れ、虎の背に騎(の)る者は、振り落とされると食い殺される危険がある。一旦虎に騎(の)ってしまったら、最後まで、虎を仕留めるまで下りることはできない。

『隋書』后妃、独孤皇后伝では、「騎
者勢不得下」が「騎者勢必不得下」となっているようです。

漢和辞典の解説には、「虎に乗って走れば、非常な勢いなので途中でおりることはできない」と書かれています。「騎」という字には“馬にまたがる”という意味があるので、「
虎に乗って走れば」という表現になったのでしょう。

この言葉は、騎虎之勢(きこのいきおい)と言われ、一旦始めてしまったことははずみがついて、途中で投げ出すことはできない・・・・・・という意味で使われます。「
騎虎」、虎にまたがるというのは危険なこと、無謀なことだと予(あらかじ)め分かっていることですから、無理とか困難を承知で始めたことであれば、その思いは貫かなくてはならない、というくらいの気迫が込められているように感じます。

この場合、始めてしまった後の困難も予測しながら、最善の対応ができるようにしておく必要も生じます。途中で投げ出さずに遣り遂げることの重要さと崇高さを説いている言葉だと思います。ですから、軽はずみな行動をしてしまった時に使う表現ではありません。その場合には、「やめられない、とまらない~♪」というフレーズがピッタリでしょう。


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