哲義繙無碌(てつぎはんブログ)とは、先哲の義訓を繙(ひもと)き記録したものです! 40代を前にして隠棲し、小商いと執筆生活に勤(いそ)しむ愚昧なる小隠が、先哲の教えを中心に、愚拙に解釈する趣味的無碌=ブログです☆

2008年3月10日

求むれば則ち之れを得、舎(す)つれば則ち之れを失う

『孟子』告子上編・盡(尽:じん)心上編より
求むれば則ち之れを得、舎(す)つれば則ち之れを失う:求則得之、舎則失之

求めようとする心があれば、それを得ることができるが、その思いを捨ててしまっては、得るはずの物ばかりでなく心をも失ってしまう。

この言葉が意味するところは、聖書に書かれている「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出されん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むるものは得たずねぬる者は見出し、門を叩く者は開かるるなり[マタイ伝二十六章六十四節]」に相通じるものですね。

求めるべきものは、すでに用意されている。あとは、それを求めよとするか否か、その人の心がけや意志によるものだ、ということでしょうか。ただ漫然と思うだけではなく強く念じる心が行動を生み、やがて得ようとしていたものが見えてくるのでしょう。

このブログに記事を投稿するのは昨年の8月6日以来で、実に7ヶ月ぶりになります。そんな私にも求めるモノがありまして、それを得ようとするための行動の一つが先哲の言葉に触れることでした。理由はともかく、未更新の状態が7ヶ月にも亘ってしまうと気恥ずかしいことであり未無念です。今回更新するに当たって、自身への戒めの意味も込めて、この言葉を選んでみました。

私が書いているブログは、もう一つ『論語ノート‐哲義繙無碌2号館☆』というのがありまして、こちらも未更新が続いております。こちらのほうも近日中に更新するつもりです。そっちのほうは、書こうと思っても文章が沸いてこないことが多いのです。これまた自分自身が、論語の一句一句を吸収しきれていないことの表れなんでしょうが、挫けずに喰らい付いていきたいと思っています。念ずれば通ず、ですから。

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