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2008年6月15日

善とは、善の在り方とは何か―積善の家には必ず余慶あり[積善余慶]

積善の家には必ず余慶あり[積善余慶]

積善之家必有餘慶。積不善之家必有餘殃。

積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。

『易経』[(周易上経)坤・文言伝]より引用。

積善余慶という言葉は、四字熟語や名言として目や耳にすることが多いのですが、これが『易経』に由来していることを、私は『易経』を読むまで知りませんでした。この言葉は、『易経』の卦を解説する[文言伝]に書かれているものです。

「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という部分を現代語に意訳すると、「善(よいこと)を積み重ねた家では、その恩恵が子孫におよび、不善(よくないこと)を積み重ねた家には、その災いが子孫にまで及ぶ。」というようになります。

「善」を善(よ)い行いと解釈すると、人に対して親切であったり助けになったりして、相手から感謝されるような行いが「善」であるように思われます。そして、ここで言う人とは家族ではなく他人様を指すもので、「家族以外の人にまでも善意を持った行いをしていれば、それが積み重なって、自分自身の子供や孫の代にいたっても幸福に恵まれる」ということを説いていることになります。だとすると、もう一方の「積不善の家には必ず余殃(よおう)有り」というのは、「人様に対して善意に欠ける行いをすれば、孫子の代にいたっても災難に遭う」と解釈されます。

これは「因果応報」とか「情けは人のためならず(回りまわって自分に還ってくる)」とかと同じような意味であり、極めて道徳的な言葉であるかのように思われます。現に、本やウェブサイトで載せられている「積善余慶」の解釈の多くが、このようなニュアンスで書かれています。書かれていることは人の行うべき道徳として正しくもあるのですが、『易経』で書かれている内容とは少し違うのです。

「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という言葉は、『易経』の「坤為地(こんいち)」という卦を解説する「文言伝」に書かれているものです。「坤為地(こんいち)」というのは全陰・純陰の卦で、全陽・純陽を表す「乾為天(けんいてん)」と対をなす卦です。(下図を参照)

(坤為地)(乾為天)。

「坤為地」というのは天地の地を意味し、天を意味する「乾為天」に従うものであり、従順で貞正な卦であると『易経』では書かれています。地(坤)の動きや働きは、天(乾)に感応するものであり、天(乾)の動きや働きに対して抗うことなく従順であることによって、地(坤)の動きや働きという作用が全(まっと)うされるということでしょう。

「文言伝」には、坤について次のように書かれています。「すべての卦(六十四卦)の中において坤は最も柔なる存在であるが、乾に感応する動きには力強さと確かさ(剛)が備わっていながら静かなものであり、その作用は四方の隅々にまで及ぶものである。(乾の)後ろに位置しすることによって、乾の動きに応じた動きができ、地上のすべての物を含有して生育することができる。坤の道は其れ順なるか。天の動きを受けるところに(坤としての)行い(作用)がある。」

上記を平たく表現すると、坤の作用というのは天の理にかなったものであって、それが淡々と行われるところに坤の柔剛さがあらわれているということでしょう。そして、この後に続くのが、冒頭に掲げた「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という言葉なのです。さらに、この言葉には、次のような文章が続きます。「臣が其の主君を殺(あや)め、子が其の父を殺めるというようなことは、一時的なことが原因で起こるのではなく、その要因となるものが次第に重なっていることに由来するのである」と。

これらの文脈から判断すると、「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という言葉の意味するところが、「家族以外の人にまでも善意を持った行いをしていれば、それが積み重なって、自分自身の子供や孫の代にいたっても幸福に恵まれ、人様に対して善意に欠ける行いをすれば、孫子の代にいたっても災難に遭う」とは少し違うように感じられます。ここでは、坤(こん)が天の理に従って作用するものであるように、主君と臣下の関係や親子や家族の関係も理にかなったものでなければならない、ということを説いているのが「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」という言葉なのでしょう。

『易経』の解説では、坤は乾に付き従う存在であるとして解説しているものがあります。これを乾に対して坤が隷属的なものであるとして解釈してしまうと、「善」というものの意味を間違えることになります。坤というのは隷属的なものではなくて、乾に対して忠実に感応し作用する存在であるというのが、正しい解釈だと思います。そして、坤(地)が乾(天)の理に感応して作用するように、人と人との間においても、天の理と同様のあるべき姿によって、その関係が創り出されるというのが、「積善の家には必ず余慶(よけい)有り。積不善の家には必ず余殃(よおう)有り。」の意味するところなのです。そして、あるべき姿を求めなければ、「臣が其の主君を殺(あや)め、子が其の父を殺めるという」事態を招くことになるのでしょう。

だとすると、「善」とは、人様から感謝されることを意味するのではなく、あるべき姿を求めることなのですね。上司が上司らしく、主人が主人らしく、親が親らしくあってこそ、職場においても家庭においても調和というものが生まれるのです。坤(地)は乾(天)に付き従うのではなく、乾(天)こそが坤(こん)を導く存在であり、坤(地)は乾(天)に感応して動いたり働いたりするのです。ですから、家庭においても、社会においても、あるべき姿である「善」を尽くすことが余慶を生み出すことに通じるのですね。

これと同様の意味を持つのが、『論語』の学而編の第2章です。『論語』では、この章を「目上に従う心こそが、仁(人を慈しみ愛する心)の根本である」と解説しているものが多くあります。しかし、学而編の第2章は、理想的な人間関係を示すために、有子(有若)が坤の意味を説いたものであろうということが
想像できるのです。『易経』の[文言伝]に書かれた「善」とは、他人様に感謝してもらうための善行ではなく、自分自身が身を置くポジションに相応しい生きかたを説いたものだったということですね。

ところで、これを今の世の中と照らし合わせてみると、「善」というものが機能しているとは言い難いですね。世間を騒がす事件は言うまでもなく、政治や行政に携わる人々にしても経済にしても教育にしろ、積善がなされているようには感じられません。こういう場合には、どのような余殃に遭遇するのか、それを考えると恐ろしく思えてきます。

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